古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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日本書紀から空白の4世紀を考察

 

前回は広開土王碑を参照する事で空白の4世紀の日本を考えてみましたが、まだまだ空白は多いです。

 

そこで、この空白を埋めるために『日本書紀』の力を借りて当時の日本を考えてみることにします。

日本書紀とは?

日本書紀』とは、元正天皇養老4年(720)に完成したとされる日本で最初の勅撰国史天皇の命で編修された国の歴史)。 撰者(編者)は天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)です。

 

空白の4世紀から300年以上経った時代に作られた『日本書紀』は正確性に乏しく、信頼できないとするのが一般的です。

 

史実として扱われていないので知らない人も多いかと思いますが、『日本書紀』には朝鮮半島へ出兵した記録がちらほら出てくるのです。

百済王から神功皇后に贈られた七枝刀

日本書紀神功皇后摂政52年条には、百済倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があります。

神功皇后に贈られたとみられる七枝刀は奈良県石上神宮から発見されています。

 

七枝刀に刻まれた文字から369年に作成されたとする説が有力視されています。

 

神功皇后摂政52年は西暦252年となるため一致しないことになりますが、日本書紀の作者は『魏志倭人伝』の卑弥呼神功皇后と一致させようとしてるのでこのような矛盾が生まれたと考えられます。

実在が確かな天皇から遡ると神功皇后の夫である仲哀天皇の誕生年は270-330年と予測しています。誕生が330年だとすれば七枝刀が作られた369年に神功皇后が即位していても矛盾はありません。(※仲哀天皇が事故で亡くなったため応神天皇が成人するまで神功皇后が即位している)

葛城襲津彦新羅に派遣したのは誰?

神功皇后62年条には沙至比跪(さちひこ)という人物を新羅へ派遣した事が『百済記』を引用して記載されています。

 

百済記』逸文 壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。 また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。

 

百済記』とは『日本書紀』だけにみられる書物で現存しておらず、成立は620〜720年だと考えられてはいますが百済人が記した歴史書です。

 

沙至比跪とは『日本書紀』において朝鮮半島に派遣された葛城 襲津彦(かずらきのそつひこ)だとする説があります。

 

葛城襲津彦神功皇后に仕えた武内宿禰の息子なので、応神天皇よりも年上〜同世代と考えられます。  

382年が正確な西暦だとすれば、応神天皇が生まれてから30年ほど経っており、政権が神功皇后から応神天皇に移行していてもおかしくありません。  

日本書紀』に記された百済王即位

この葛城襲津彦の派遣から10年後にあたる応神天皇3年の記事に、「紀角宿禰(きのつののすくね)が百済の辰斯王を攻めて殺害し、阿花を立てて王とした」とあります。

 

紀角宿禰とは武内宿禰の子とされており葛城襲津彦の兄弟です。

 

倭から派遣された紀角宿禰百済王を立てるなんて内政干渉じゃないかと思いますが、朝鮮の歴史書にも類似した記録があります。

Wikipediaより

辰斯王とは百済の第16代の王で、『三国史記』(朝鮮半島最古の歴史書)によれば、385年乙酉11月、先代の枕流王が薨去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとあります。

 

三国史記』によれば辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についたとあり、紀角宿禰の名前はないものの日本書紀』と類似しています。

 

応神天皇が350年に生まれたとすれば、392年には42歳となり年代的に矛盾はないように思えます。

紀角宿禰花王即位にどれほど関わっているのかはわかりませんが、前回の記事で書いた『広開土王碑』より倭軍が朝鮮半島出兵していたことは事実としてありそうです。

 

その影響か『日本書紀』の応神天皇の時代には百済にまつわる記載が多く登場します。

応神天皇百済

日本書紀』の応神天皇百済に関する記事を見てみましょう。

 

まずは先ほどの阿莘王即位から11年経ったとされる記事です。(ただ応神天皇は109歳まで生きたとされており細かい年数は信用できません)

 

応神天皇14年是歳条

百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。

加羅(から)とは1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々のことです。

 

弓月君とは王を差すので弓月民族の王が百済人(百済に住む弓月族?)を連れて加羅経由で日本へ入国したいのに、新羅が邪魔をしているという訴えがあったということです。

 

派遣された葛城襲津彦新羅に敗れてしまったのかな、と想像するわけですが、『日本書紀』に気になる文章があります。

 

神功皇后62年条に新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣されたとあり、その後に『百済記』を引用して「葛城襲津彦が派遣されたが新羅が用意した美女に目が眩み加羅を攻撃、天皇の怒りをかい葛城襲津彦は自害した」に続きます。

 

日本書紀』の作者は『百済記』にある美女に誘惑されて新羅でなく加羅を攻めた事件を神功皇后62年としていますが、個人的には応神天皇13年の加羅に派遣した襲津彦が3年経っても帰ってこない事件のことなのではないかと思うのです。

すなわち、葛城襲津彦は382年(百済紀より)に派遣され、3年後の385年に自害しているのではないかと思います。

 

だから、392年の花王即位の時には、葛城襲津彦の弟である、紀角宿禰が派遣されているのではないでしょうか。

 

弓月君百舌鳥古墳群を作った?

葛城襲津彦の謎はさておき、弓月君はどうなったかというと、無事に日本に入国できています。

 

応神天皇16年8月条 天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。

 

葛城襲津彦が帰ってきたのか、自害したのかは不明ですが、弓月の民が持つ石を加工する技術を使って大阪に巨大な前方後円墳を作ったのではないかとする説もあります。

堺市博物館展示より

大仙陵古墳が作られ始めたのがちょうどこの頃(4世紀後半)なのです。

堺市より

それまでの古墳は竪穴式石室でしたが、4世紀後半に百横穴式石室が百済からもたらされたと考えられています。横穴石室は地上に石を組んだ石室とそれに通じる道を造り、石室が完成してから上に土盛をするため、石を加工し、運び、組む高い技術が必要とされる方法です。

Wikipediaより

横穴式石室を作る技術は戦国時代に城の石垣を作る技術にも継承されており、歴史の繋がりを感じますね。

堺市博物館展示より

応神天皇は『古事記』によれば軽島豊明宮(奈良県橿原市)に住んだと言われています。奈良に最も近い外国との玄関口が大阪湾であり、百舌鳥古墳群を作るきっかけとなったというわけです。

ちなみに、『古事記』によれば応神天皇が難波大に隅宮を置いたとされています。

 

大阪に遷都した仁徳天皇

応神天皇の子、仁徳天皇になると都を朝鮮半島外交に力を入れるためか難波高津宮に移したと言われています。

仁徳天皇は4世紀後半に誕生したとすると、142歳まで長生きしなかったとして5世紀前半に亡くなったと考えられ百舌鳥古墳群の「履中天皇陵古墳」「御廟山古墳」あたりに埋葬されているのではないでしょうか。

仁徳天皇陵の矛盾に関する記事

仁徳天皇百済に関する『日本書紀』の記事として以下があります。

 

仁徳天皇41年3月条

天皇百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。

この時代まで紀角宿禰葛城襲津彦が存命なのかは非常に怪しいところですが、百済王族酒君は後に、日本で鷹狩りを伝えた人物として登場します。

 

まとめ

・『日本書紀』の年代は矛盾多いが朝鮮の歴史書や七枝刀、広開土王碑文を用いると4世紀の空白を埋める事ができる。

・晋滅亡に伴う高句麗南下によって圧迫された百済新羅加羅諸国へ進出した事が推測され倭は兵を提供する事で大陸の技術を獲得していた。