『逃げ上手の若君』第二話より
今回は『逃げ上手の若君』第二話に登場した敵、五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)を深掘りしていきます。
※『逃げ上手の若君』第二話のネタバレを含みます。
五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)の時代
目次
五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)と邦時の関係は?
五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は歴史上実在した人物であることがわかっていますが、詳しいことはわかっていないようです。
五大院氏は代々北条氏に仕えていた※御内人(みうちびと)です。
※御内人:御家人は将軍の直接の家臣である。 御内人は事実上の幕府の主たる北条氏の家臣で、将軍から見れば陪臣(家来である北条氏の、そのまた家来)である。
なぜ時行(ときゆき)の父、北条高時は邦時を五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)に託したのでしょうか。
五大院宗繁の家系図
高時が邦時を五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)に託した理由として、一つに血の繋がりが考えられます。
宗繁の妹(常葉前)は、北条高時の側室でした。つまり北条高時と五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は義理の兄弟という関係なのです。
北条高時は義理の兄弟である五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)なら実の妹の子である邦時を守り抜いてくれると考えたのかもしれません。
史実の五大院宗繁(ごだいいんむけしげ)は何をしたのか?
五大院宗繁(ごだいいんむけしげ)が歴史書の『太平記』に登場するのは、鎌倉幕府の滅亡が間近に迫った正慶2年(1333)5月のことです。
「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」(『太平記』巻十一)から史実の五大院宗繁(ごだいいんむけしげ)がとった行動を見てみましょう。
鎌倉幕府が滅びる前の事、北条高時「邦時をそなたに預けるので、いかなる手段を使ってでも隠し置き、時期が到来したら、挙兵して私の恨みを晴らしてほしい」と言うと、五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は了解した旨を告げた。鎌倉での合戦の際中に、宗繁と邦時は逃亡した。
鎌倉幕府滅亡後数日…北条氏の残党狩りが行われており、残党を捕らえた者に褒賞が与えられるという。 五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)はその状況を見て「このまま命を失うよりは、邦時の居場所を敵(足利氏、新田氏)に教え、所領が安堵されるほうがいい」と褒賞目当てに甥であり主君でもある邦時を裏切ることとした。
五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は「ここにいれば誰にも知られないと思っていたが、敵に居場所がばれてしまった。まもなく、船田入道(新田義貞の家臣)がここへやってくるでしょう。夜に紛れて伊豆山へお逃げになってください。」と邦時に説明した。
こうして邦時は部下1人に太刀を持たせ、馬にも乗らず、敗れた草履に編笠をかぶると、泣く泣く伊豆山へと向かっていった。その後、五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は敵の船田入道の元へ行き、「邦時の居場所を教えるので、討つことができたら、所領の安堵を推挙してほしい」と申し出た。 船田入道は「なんと悪い奴だ」と思ったが、とにかく所領の安堵を約束して、邦時を待ち伏せることにした。
翌日の朝邦時が相模川を渡ろうとしているところを五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)が「あれが邦時だ!!!」と叫んだ。船田入道らが邦時を生け捕りにしたのである。
逃げ上手の若君第二話より
その後、捕らえられた邦時は鎌倉に連れてこられた。見物する人はまだ幼い邦時を見て涙を流したという。朝敵の長男である邦時は翌日の早朝に首を刎ねられた。
五大院宗繁(ごだいいんむけしげ)の最後
五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)は旧主(北条高時)の恩を忘れ、幼い邦時を敵に引き渡すしたので、義を忘れた悪人であるとして、旧友や世の人からも後ろ指をさされた。
新田義貞はその話を聞いて、五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)を討とうとしたので、五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)恐れては逃亡した。五大院宗繁(ごだいいんむねしげ)に食事を施すものはなく、やがて宗繁は乞食となり、路傍で餓死したという。
『太平記』には上のように記されています。
『逃げ上手の若君』第二話より
『逃げ上手の若君』でも邦時の居場所を教えたにも関わらず、恩賞を得ることができずに路上でヤケ酒を飲み、落ちぶれた様子がありましたね。
逃げ上手の若君第二話より
その後時行を見つけ出そうと決意していましたが、これはフィクションだったようです。