古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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日本列島に人類がやって来たのはいつ?日本人は多民族か?

日本列島が大陸と地続きだった時代。野生動物を追いかけてアフリカを出たホモサピエンスがついに、日本列島へやってきました。 

目次

旧石器時代ホモサピエンスが日本列島へ

花見川流域を歩くより引用

旧石器時代の遺跡数を集計している方がいましたので引用させてもらいました。北海道、関東、長野、北九州が多いですね。沖縄が少ないのは意外でした。

 

日本人が持つ遺伝子を参考に彼らを日本列島にやって来た人々を考えてみましょう。

上は現代日本人のY染色体ハプログループです。

日本人特有の遺伝子として 「D1a2」と「C1a1」があります。これらは縄文時代以前に日本列島にやってきた集団から由来する遺伝子と考えられています。近くのアジアの民族は上記の遺伝子を持っておらず現代日本人特有の遺伝子だからです。

4万年前海岸に沿ってやってきた人々はY染色体ハプログループD1a2系統でしょうか。

細石刃(さいせきじん)を持つ人々が2.5万年前に北海道に、1.5万年前に九州にやって来ました。Y染色体ハプログループは現代日本人がわずかに(5%持つ)C1a1系統でしょうか。あるいは現代日本人は持たずにアイヌが持つC2bでしょうか。

 

この段階で日本列島には少なくともY染色体ハプログループD1a2とC2bが共存していますが、当時の人口は最高でも1万人。人口密度で考えると言語も異なるであろう2つのグループはまだ出会っていなかったかもしれません。

帯広百年記念館より

 

定住したのはいつ?

日本最古の竪穴住居は狭山遺跡(大阪府藤井寺市)から2.3万年前のものが見つかっています。神奈川県相模原市で見つかった住居跡も2万年前のものです。これまでは獲物を追いかけて住む場所を点々としていました。

氷河期が終わる1.5万年前になると本州のあちこちで竪穴住居が作られるようになります。平均気温が上がり植生が豊かになったためでしょう。

 

それとだいたい同じ頃1.5万年前には土器が使われていたことがわかっています。青森県の大平(おおだい)山元(やまもと)遺跡です。土器は重くてもろいのて運ぶのに適さず定住の証拠になります。

北海道最古の土器は本州よりも少し遅く1.3万年前の帯広市の「大正3号遺跡」から見つかっています。北海道の細石刃は大体この頃1.4万年頃から使われなくなり、代わりに有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が使われるようになります。

 

有舌尖頭器は本州では土器を伴って出土することが多いことから、この頃に土器を持った人々が本州から北海道に流入したのでしょうか。

 

北海道の竪穴住居はやはり本州より遅く9千年前のものが見つかっています。これもまた本州の影響を受けたといえるでしょうか。

 

狩猟を生業とするCと漁業を生業とするD系統の出会いが語り継がれたものが、海幸彦、山幸彦の神話なのだとしたら面白いなと思ったりします。

【海幸彦vs.山幸彦の神話】

 

人口が急増した縄文時代中期

縄文時代初期イメージ図

8000年前の列島人口は旧石器時代の倍の約2万人となります。その大半が東北から関東、東山(山梨・長野地域)にかけて居住していたと推察されています。

花見川流域を歩くより引用

上は縄文時代の9千年の間の遺跡数ですが東日本が多いことがわかります。

エコノミストonlineより

西日本には縄文晩期まで、人口が少なかったことがわかっており、これは7300年前の鬼界カルデラの噴火の影響なのでしょうか。もしくは今より平均気温が高いので暑すぎて住みづらかったのでしょうか。(7000年前は今より2-3度高い)

その後も列島人口(特に東日本)は順調に増えていき、5200年前には約11万人、縄文中期の4300年前にはおよそ約26万人とピークを迎えます。

燃え盛る炎のような火焔型土器(5.3千年前ー4.8千年前)や神像筒型土器(しんぞうつつがたどき)(5千年前)が作られたのはこの頃です。

寒冷化による人口の減少

縄文大規模な集落は2000年ほど繁栄しますが、縮小していきます。一説には気候の冷涼化が原因だと考えられています。

寒冷化により1300年間かけてじわじわと人口が減少していき、4000年前には3分の1の7万人まで減少してしまいます。

この頃にはなるとストーンサークルや遮光器土偶など日本列島の外からもたらされたであろう分化が現れます。おそらく寒冷化に伴って日本列島南下してきた人々がいたのでしょう。

世界的に見てもこの時期は氷河期の後の温暖な気候で栄えたであろう文明が滅んでいます。

4300年前三内丸山遺跡衰退

4200年前古代エジプト衰退

4000年前インド=ヨーロッパ語族拡散

3900年前古バビロニアによりウル第三王朝滅亡

 

弥生人の渡来

日本列島に住んでいた縄文人(Y染色体ハプログループD、C、その他もいるかも)の人口が7万人と少なくなっている中、大陸からやってきたのが弥生人と呼ばれる人々です。

紀元前930年(2930年前)には菜畑遺跡(佐賀県唐津市)から日本最古の水稲稲作跡が見つかっています。 

菜畑遺跡の170年前の3100年前の中国では周が殷を滅ぼす革命が起きています。また、2900年前には周が滅ぼされ「春秋時代」に突入します。これらは稲作の伝来と関係あるのでしょうか。

朝鮮半島には2200年前頃に山東半島遼東半島を介して伝わったようですので、稲作を伝えた渡来人の経路は長江流域から対馬海流に乗って直接日本列島に来た経路と朝鮮半島から来た経路の2つがあるように思われます。

2900年前から始まった春秋時代に長江が流れるのは楚と呉です。紀元前473年(2500年前)に周の太伯の子孫が建てた呉が越に滅ぼされます。紀元前223年には秦によって楚が滅ぼされます。この時に呉からの移民が対馬海流に乗って、楚からの移民が朝鮮半島を通じて日本列島にやって来たとする説が下の本に記されていました。後日内容をまとめます。