
さきたま古墳群の稲荷山古墳(5世紀後半)から出土した稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)には獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の文字が刻まれ、21代雄略天皇の実在が証明されました。
今回は鉄剣に刻まれた「辛亥年」とはいつだったのか考えてみます。
目次
雄略天皇天皇とは?

21代雄略天皇は『古事記』『日本書紀』に登場する人物です。古墳時代に活躍したと想定されていましたが、古墳時代の日本には文字で記録する文化がなく実在したかどうかは疑わしいとされていました。

鉄剣に刻まれた「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」が『記紀』の大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)と一致することから雄略天皇は実在の人物であると確認されました。

雄略天皇が実在したように神武天皇から続く歴代天皇の系図が正しいと仮定して、親と子の年齢差を20年もしくは30年としてさかのぼったところ雄略天皇は西暦390年もしくは410年に誕生したと推測できました。
稲荷山古墳出土鉄剣の辛亥年はいつ?
「辛亥」とは干支を使った中国の暦で60年に一度の周期でやってきます。
稲荷山古墳の築造(5世紀後半)から推測すると該当しそうな辛亥年は411年、471年、531年の3つです。学会の定説では471年説が有力視されているようですがどうでしょうか。
辛亥年について海外の歴史書から読み解いていきたいと思います。

稲荷山古墳が作られた5世紀後半の朝鮮半島では高句麗(こうくり)が大暴れしていました。ずっと戦ってきた高句麗の隣の北燕(ほくえん)が436年に滅んだためです。

北燕が消えて南に進出してくる高句麗に対して百済(くだら)と新羅(しらぎ)は433年に同盟を結んでいます。
436年北燕滅亡
なお『日本書紀』にも雄略天皇20年に百済が滅亡したとあり、これを475年の百済王殺害に一致させて考えてみたいと思います。
雄略20年が西暦何年を指すのかはわかりませんが、雄略天皇の即位が30歳だとして、半分の10年か記述通りの20年だとすれば、475年の時点で雄略天皇の年齢は40歳か50歳。
鉄剣の辛亥年
411年 生まれてない。
471年 40歳か50歳?
531年 100歳以上
となり、定説通り471年で良いと考えました。
ただし、そもそも雄略天皇=ワカタケルオオキミでなかったり、『日本書紀』の雄略10年が全く嘘だったら471年ではないかもしれないことはお知りおきください。
火山灰の年代から推定
群馬県にある榛名山は1500年前に大きな噴火を2回起こしており、そのときの火山灰から年代を予測した試みがあります。1回目の噴火による火山灰が495年頃、2回目が520年頃とわかっており、稲荷山古墳出土の須恵器は1回目の火山灰の地層から見つかったそうです。すなわち稲荷山古墳は495年以前には既にあったことになり辛亥年471年説を後押しする証拠になりました。
詳しくはこちらの方のブログにありました。