大阪府吹田市(すいたし)垂水町(たるみちょう)に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀る神社があると聞いて調べてみました。
目次
垂水神社がある豊島郡とは?

8世紀律令が定められた頃、大阪は摂津国、河内国、和泉国と呼ばれていました。垂水神社があるのは摂津国の13郡のうちのひとつ、豊島(としま)郡です。

律令制で定められた豊島郡(としまぐん)は現在の箕面市、池田市、豊中市を含む行政府区分です。

現在は旧豊島郡である豊中、池田、箕面(みのお)を繋ぐように阪急電鉄箕面線が走っています。
『延喜式』神名帳(927年)によれば豊島郡には豊島郡には式内社が5座あるとされています。
・為那都比古神社(いなつひこ)神社 二座 祭神:いなつひこ
・細川神社 祭神:不明
・垂水(たるみの)神社 祭神:豊城入彦
・阿比太(あびた)神社 祭神:素戔嗚
中でも気になるのが豊城入彦を祀る垂水神社です。
垂水神社に豊城入彦が祀られたのはいつ?
祭神:豊城入彦命
祭神の豊城入彦命(とよいきいりこのみこと)といえば10代崇神天皇の皇子で11代垂仁天皇の兄弟です。夢占いをした際に東に向かって剣を振る夢を見たので東国に派遣されたという神話を持っています。
興味深いことに群馬県や栃木県など北関東には豊城入彦とその末裔を祀る神社が多いです。
なぜ大阪に豊城入彦祀る神社があるのか知りたくなり調べてみました。
垂水地域では古代より垂水氏が居住していました。垂水氏のルーツについて『新撰姓氏録』を見ると賀表乃真稚命(かほのまわかのみこと)(豊城入彦命四世孫)の末裔とあります。
阿利真公(ありまのきみ)(豊城入彦命六世孫)の時に「垂水公」の姓を賜るとともに垂水神社の祭祀を管掌したともあります。

豊城入彦命の6世孫というと関東でいう奈良別あたりでしょうか。

天皇でいうと16代仁徳天皇の子の17代履中、18代反正、19代允恭天皇世代の人物なので4世紀後半もしくは5世紀前半ころだと思われます。
垂水氏は豊城入彦の子孫なのか?
豊城入彦命の末裔を名乗る氏は多いですが、血の繋がりがあったのかは不明です。
例えば大荒田別や上毛野田道が朝鮮半島から連れてきた渡来人も豊城入彦命の末裔と名乗っている疑惑があるからです。
垂水氏は豊城入彦の子孫なのか、はたまた大阪湾にやって来た渡来人の子孫なのかは気になるところです。
垂水氏は渡来人っぽいエピソードもあるので紹介します。
『新撰姓氏録』右京皇別 垂水公条によると、孝徳天皇の時(645年-654年)に旱魃のことがあったが、阿利真公(豊城入彦命六世孫)が「垂水岡」から高樋で天皇の宮(難波長柄豊碕宮)まで水を通したので、その功により阿利真公は「垂水公」の姓を賜り、また垂水神社を管掌したという。
豊城入彦命6世孫が36代孝徳天皇の時代まで生きていたとは考えづらいですが、阿利真公は難波宮から垂水まで水路を作るような治水工事を担当していたことがわかります。

治水工事といえば大陸からやってきた渡来人がもたらしたイメージがあるのですが、孝徳天皇の時代 (7世紀半ば)にはもう渡来人以外にも技術は継承されているのでしょうか。
豊城入彦を祀る前は水の神を祀っていた?
垂水神社では 元は水の神を祀っていたとする説もあるようです。
境内にある湧水は霊泉として信仰されたことが、『摂津名所図会』『摂津志』にあり、少なくとも近世(18世紀)には垂水神社の水は信仰の対象とされていたと考えられます。
垂水神社の社名の「垂水(たるみ)」とは、「崖から流れ落ちる水」を意味しています。

千里山会館より
千里丘陵の南端に位置する垂水神社のすぐ下には古代の大阪湾がありましたので、千里丘陵の垂水湧水が大阪湾に滝のように流れ落ちる場所が垂水と呼ばれる由来だったのかもしれません。
『新撰姓氏録』には「垂水岡」の水にまつわる当社の由緒が記されており、国史等にも朝廷から垂水神社へ幾度も祈雨祈願の奉幣がなされた旨が記されています。

水の神を祀る素朴な祠が鎮座していたこの場所に、豊城入彦の末裔が移住して来て、祖先の豊城入彦命を祀ったが水の神としての性格は継承された。垂水という地名から垂水氏を名乗るようになった。こんな流れでしょうか。
垂水神社の近くには弥生時代の中核的集落と推定される垂水遺跡や垂水南遺跡もあるようなので調べてみたいですね。
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