埼玉古墳郡の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた獲加多支 (わかたける)大王に左治天下したとされる乎獲居臣(おわけおみ)とは誰なのか考えていきたいと思います。
目次
稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた内容
稲荷山古墳の鉄剣には乎獲居臣(おわけおみ)が斯鬼宮(しきのみや)で獲加多支 (わかたける)大王に仕えた事、乎獲居臣(おわけおみ)の祖先の名前が記されています。

獲加多支 (わかたける)大王は21代雄略天皇だと考えられています。『古事記』では「大長谷若建命」、『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」と記されているためです。
雄略天皇の右腕身狭村主青(むさのあお)
雄略天皇に仕えていた人物として乎獲居臣(おわけおみ)らしき人物が古文書に登場しないのか見ていきます。
『日本書紀』巻第十四
雄略天皇は自分の心だけで決断し、「誤りて人を殺したまふこと衆(おお)し」と言われた。天下の人たちは天皇をそしって、とても悪い天皇である、というふうに評された。そのような中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と、檜隈民使博徳らのみだったという。
雄略天皇が寵愛したとされる身狭村主青(むさのあお)と、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)はどちらも中国から来た渡来人です。
身狭 青(むさ の あお)は呉の孫権の末裔?
青は渡来氏族身狭(むさ)氏の出自であり、雄略天皇が設けた史部(ふみひとべ)としての知識、技能を認められ、外交面での活躍した人物です。

『日本書紀』雄略天皇8年(464年)、雄略天皇12年(468年)に呉の国(宋)に派遣されたと記されています。(『宋書』には登場しない)
身狭氏の由来は村の名前であると見られています。『新撰姓氏録』左京諸藩下には「牟佐(むさ)村主」とあり、「呉ノ孫権ノ男ノ高ヨリ出ヅルナリ」と伝えており、『新撰姓氏録』逸文には「牟佐村主」は仁徳天皇(4世紀後半〜5世紀前半)の御世に渡来し、大和国檜隈(ひのくま)に居住したともあります。

身狭村主青(むさのあお)はまさかの呉の孫権の末裔という三国志ファン大歓喜のプロフィールでした。

司馬炎によって孫権の呉が滅亡したのが280年。仁徳天皇の生まれた年は330年もしくは370年と予測しています(※仁徳天皇は古事記では427年に崩御したとある)ので呉の難民が日本に流れてきていてもおかしくはないと思います。
身狭青が治めた大和国檜隈

大和国檜隈(ひのくま)という地名にビンビンくるのですが、ひのくま=火の熊といえば、『松野連系図』で火国造(ひのくにのみやつこ)に任命された熊襲一族を思い出します。

『松野連系図』の松野連は『新撰姓氏録』で中国戦国時代の呉の太伯の末裔とされているんですよね。

大和国檜隈(ひのくま)の歴史は応神天皇の時代に後漢霊帝の後裔(ひ孫)と称する阿知使主(阿智王)が17県の人夫を率いて百済から日本へと帰従し、大和国高市郡檜前村を賜って居住したとあります。
後漢の末裔がひのくまを名乗る理由もわからないのでもっと古い時代から呉と関係があった地名なのかもしれませんね。 現地に行って由来を探したいところ。於美阿志神社行きたい。
まとめ
・応神天皇の時代に後漢の霊帝の末裔阿知使主が大和国檜隈に移住
・仁徳天皇の時代に呉の孫権の末裔の牟佐村主が大和国檜隈に移住
・雄略天皇の時代に身狭青が史部として外交で活躍
身狭青は中国系渡来人なので、稲荷山鉄剣に刻まれた祖先とは系図が繋がりません。また、杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)という役職は武官。現代で言う軍のトップだとすれば、身狭青は文官、現代で言う官僚として活躍した人物なのではないか。よって身狭青=乎獲居臣(おわけおみ)説は否定されそうです。
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