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【ベトナムの古代史】ベトナム人は龍の末裔か?

旧暦3月10日(新暦4月18日)はベトナムの祝日です。この日はベトナム初の国家をである文郎国を建国した雄王(フンブオン王)の命日として現代でも大切にされています。今回は、ベトナムの古代史、神話についてまとめてみました。

 

 

中国神話から続くベトナム建国神話

ベトナムの建国神話は中国神話の続きとして語られます。中国の三皇五帝神話のアナザーストーリーといった感じです。

中国神話では三皇と呼ばれる三人の神が人間を創造し、農業や医薬など知恵を授けたとされています。

 

やがて、中国神話の三人の神のうち、1人である神農(しんのう)の3世孫である帝明は、南嶺山脈で美しい仙人の娘に出会い2人の子供を授かります。

仙人の娘は兄の帝宜に天子の位を継がせようとしましたが、弟の禄続(Lộc Tục)が賢明だったので、帝明は禄続(Lộc Tục)を南方の赤鬼国を統治させることにします。禄続(Lộc Tục)はやがて涇陽王と名乗ります。

涇陽王は洞庭君の娘・神龍をめとり、生まれたのがラック・ロン・クアン(Lạc Long Quân:雒龍)です。

洞庭君の娘の間に崇纜(スンラム、貉龍君、雒龍君、駱龍君とも)を生んだ。

貉龍君(ラク・ロン・クァン)は、現在の中国の湖南省にある南峰(なんれい)山脈で仙人と出会う。天仙の女子・アウコー(Âu Cơ:嫗姫)と出会い、100人の男子が生まれました。この100人の子が「百越」の由来とも言われています。

多くの子宝に恵まれた2人でしたが、龍族である貉龍君(ラク・ロン・クァン)と仙人である嫗姫(アウコー)は、水と火のような関係性で二人は相容れなかったそうです。

2人は離れて暮らすことを決め、50人の子は母と共に山へ行き、50人の子が父と共に南の海に残りました。

 

ベトナム初の国家「文郎国」成立

父と共に南に残った子の長男支艮が雄王=フン王(Hùng Vương)となり、峰州(フォンチャウ:Phong Châu)を都として文郎国(ヴァンラン:Văn Lang)国を建てました。

 

これがベトナム初の国家とされる文郎(バンラン)国です。

この古の都フォンチャウですが、フート省ヴィエッチー(thành phố Việt Trì, tỉnh Phú Thọ)付近と想定されています。

Wikipediaより

大越史記全書』によると、雄王(ホングン)の子孫は代々雄王(ホングン)を名乗り紀元前258年に文郎国は西甌(タイオウ)の蜀泮(ショクハン)(古蜀の王子。古蜀がBC316年に秦に滅ぼされた後)によって滅ぼされるまで18代にわたってホングンは続いていたとされています。

 

文郎国の滅亡

文郎国王の滅亡には秦が間接的に関わってきます。始皇帝が中華を統一(BC221年)する100年ほど前のこと、BC316年に秦が古蜀を滅亡させます。

古蜀とは長江流域で繁栄した青銅器文明で三星堆遺跡(さんせいたいいせき)は5000年前から約3000年前頃に中国四川省広漢市で栄えた古蜀文化の遺跡で青銅器製の遺物が多く発見されています。

秦によって滅ぼされた古蜀の王族は南に流れて、文郎国の北側を拠点に秦に抵抗を続けていたようです。

ハノイに面した紅河(ホン川)は、雲南省から流れていますので、古蜀の王族は水路を使ってベトナムまで亡命してきたのかもしれません。

古蜀第12代目の蘆子覇王の子である蜀泮(しょくはん) は、ベトナム北部に甌貉(オーラック:Âu Lạc)国を建国します。

蜀泮が秦の侵攻に備えて作った城跡は現在ベトナムの観光地として整備されています。ハノイ近郊の「コーロア」です。3重の土塁と水堀が渦巻くような形から螺(タニシ)の形に見えるとして古螺城と呼ばれています。

 

秦による侵略を回避した蜀泮は文郎国を滅ぼし、ベトナムの歴史上、2番目の国家である甌貉(オーラック:Âu Lạc)国が建国されるのです。