祖先を呉王の夫差とする『松野連系図』には倭奴国王が登場します。後漢光武帝から金印を授かった人物のことなのか考えてみました。
呉王夫差の末裔と免田式土器

呉王夫差の末裔を名乗る松野連という豪族が拠点としたのが熊本県菊池郡です。呉王夫差の末裔は呉が滅亡した後、東シナ海を渡って対馬海流に乗り、有明海に辿り着いたのではないかと考えられます。

産経新聞より
考古学的には弥生土器の種類のひとつである免田式土器の分布が気になります。免田式土器は有明海沿岸部を中心に広がっていることから、有明海に上陸した渡来人の勢力が拡大していく足跡がわかるのです。
松野連系図からみる倭奴国王
『松野連系図』をみると九州はへやってきた夫差の子、忌の孫に当たる、阿弓と恵弓から宗家と分家に分かれていることがわかります。

系図には阿弓が怡土郡(いとぐん)へ行ったとあり、これが後の伊都国(いとこく)となったようです。
系図には阿弓の子の宇閇が金印を授けられたとあり、57年の光武帝から金印を授けられた倭奴国王と対応させています。
呉の滅亡から400年たった出来事なので夫差の子、忌のひ孫が倭奴国王というのは、早すぎるように思いますが…

また、宇閇の孫の玖志加也が107年に遣いを送ったとあるので、倭王帥升と対応させています。
香川県丸亀市には式内社の宇閇神社があるようです。祭神は武内宿禰です。武内宿禰の母方は姫世と前回の記事にかきましたが、何か謎が解けないか現地に行ってみたいものです。
卑弥呼と壱与も倭奴国王の末裔か?
『魏志倭人伝』に邪馬台国と狗奴国が対立していたとあったように、呉王夫差の末裔である松野連は菊池郡に残った宗家と分家となり北九州の倭奴国に別れ、争いがおきています。

系図では『魏志倭人伝』にある卑弥呼は卑弥鹿文、壱与は市鹿文であるとしています。卑弥呼の頃、宗家と分家が婚姻して一つになっていますね。
『魏志倭人伝』で壱与を宗女としていたのは、宗家出身という意味が込められていたのかもしれません。