
春秋戦国時代の末期、秦の前にたちはだかった大国、楚とはどんな国だったのか解説します。
楚とは?

楚とは周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した王国で、現在の湖北省・湖南省を中心とした広い地域を領土としていました。

湖北省・湖南省は中国の南側の江南と呼ばれる地域で東南アジアに近い地域です。

中国の北側華北は降水量が少なく乾燥しているため雑穀、畑作が盛んで、南側の江南は降水量が多いので稲作が盛んでした。
楚の王朝は祖先は黄河文明の顓頊(五帝の一人で黄帝の孫)であるとする説と、長江文明の流れを汲む南方土着の民族(東夷、ミャオ族)によって建設されたとする土着説があり、不明です。
『史記』楚世家によると、殷周革命(紀元前1046年)の中心人物である文王の時代に、楚の鬻熊が活躍した功績から、鬻熊の曾孫の熊繹が周王朝の第2代成王から子爵に封じられたとあります。

周の第4代昭王の時代になると周の討伐を受けますが、撃退し、なんと昭王を戦死、行方不明にさせたとされています。

その後、熊繹から6代孫の熊渠の時代に「我は蛮夷であるから中国の爵位にあずからない」とし、自ら王号を称するようになります。
このように、楚は建国当初から中央政府になびかない反骨精神、独立精神を持っていたとわかります。
楚の独立
王を名乗った熊渠でしたが、周に暴虐な厲王が立つと、恐れて王号を廃止し、再び周王朝の臣下となります。

楚子爵18代目の熊徹(ゆうてつ)の時代には、侯爵国であった随を滅ぼし、それを理由に周に爵位昇進するよう願い出ますが、断られたため、独立宣言をし、再び王を名乗るようになります。(紀元前704年)
つまり、熊徹が楚の初代王の武王となります。これは華北の諸侯である魏が王を名乗るよりも約400年早いことになります。
春秋五覇の一角となる

6代目荘王の時代になると、荘王一代で周辺国26カ国を攻略すると、周王朝の都である洛邑まで軍事パレードを行ったりします。

紀元前597年には華北の強国である晋の大軍を邲(ひつ)の戦いで破ったことで、春秋五覇の一人に数えられるまでになります。
楚と越の因縁の戦い
春秋五覇の一角となった楚でしたが、荘王の次の7代目共王の代になると、鄢陵の戦いで晋に敗れて覇権を失ってしまいます。

11代目の平王の時代に、楚王朝に代々支えた家柄の末裔である伍子胥(ごししょ)を国外に追放します。

一族を滅ぼされた伍子胥は平王を恨み、隣国の呉王闔閭(こうりょ)に仕えることによって、楚に復讐を果たします。
伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭(こうりょ)率いる呉軍に首都を陥落させられた楚は、一時滅亡の危機を迎えますが、申包胥(しんほうしょ)の必死の懇願により秦の援軍を取り付け、13代昭王が復帰します。
紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んで越を滅ぼします。

こうして、楚は春秋時代の強国、越、呉の領地であった長江下流、東シナ海沿岸部にまで勢力を拡大することに成功したのです。
その国土の広さとは裏腹に戦国時代の楚は弱体化していきます。
人口に対して広大すぎる国土に散らばる王族・宗族や貴族が多くなり過ぎ、政府によるコントロールが難しくなっていったためです。
他の六国と異なり、楚は戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族による世襲制であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、古い体制を変えられず国内での権力闘争が終わることがなかったのです。
そのような状況の中で西側で強大化した秦と戦うことになる、というのがキングダムの世界です。