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【戦国時代の幕開け】〜呉、越の移民の行方は〜

この記事では呉を滅ぼした後の越王勾践が覇者になった後、戦国時代に突入していく流れをまとめていきます。呉、越の移民の行方にも注目です。

 

 

紀元前473年蘇州に追い詰められた呉王、夫差(ふさ)は自害し、呉は滅亡します。

 

夫差に従っていた呉の民(倭人)や呉の王族は全て越軍に討伐されたのでしょうか。

 

越王勾践(こうせん)は夫差の命を取ろうとせず島流を命じたといいます。昔、夫差に命を奪われなかった恩なのでしょうか。

 

このように越軍は呉の移民達を執拗に追いかけて討伐することはしなかったのかもしれません。それでは呉の民はどこへ逃れたのでしょうか。

 

1.東シナ海を渡り山東半島へ逃亡した

当時、北側の隣国、斉(せい)は呉の領地でありましたから、越と反対方向にある斉に逃れたということは考えられるでしょう。

海洋民族である呉の移民は、やがて斉(せい)まで越の支配が強まると、遼東半島朝鮮半島経由で沿岸部を通って日本列島へわたってきたのかもしれません。

 

漢書地理志』 にある「夫れ楽浪海中に倭人有り」とあるのは、呉の移民が山東半島遼東半島朝鮮半島西岸に住み着いた結果形成された国だったのかもしれません。

2.直接九州へ逃亡したか?

あるいは海流に乗って呉から直接九州へやって来ているかもしれません。

現在の熊本県を拠点とした古代の豪族、松野連(まつののむらじ)は『新撰姓氏録』に呉の夫差の末裔とあります。

 

呉の難民は、遺伝子的には同じY染色体ハプログループD系統であったとすれば、日本列島に住んでいた縄文人と同じ遺伝子を持っており同化できたとも考えられます。

 

また、呉があった場所には日本列島に見られる支石墓に似た墓が見つかっており、日本列島と呉の間で人の行き来があったことがわかっています。

 

越が覇者となる

呉滅亡から10年余りがたった頃、紀元前465年に越王の勾践(こうせん)が北上が開始します。

山東半島を侵略した越はいよいよ中原を脅かす存在となります。

勾践は越の都を瑯琊(現在の江蘇省連雲港市海州区)に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となります。(牛の耳の血を飲む儀式で最初に血を飲む人が天子を支える覇者。牛耳るの語源)

 

戦国時代の始まり

韓(かん)・魏(ぎ)・趙(しょう)の新興の強国が成立し、これを周王朝が諸侯として認めた紀元前403年が戦国時代の始まりです。

戦国時代の始まりについて簡単にまとめます。周王朝の一門である諸侯の晋(しん)は春秋時代の有力な諸侯でした。

中原の覇者となった晋(しん)の文公の死後、家臣であった知・范・中行・韓・魏・趙の六豪族が有力となります。

 

その中で最も有力であった知氏が范氏・中行氏を併呑し、他の韓・魏・趙三氏を圧迫して専制を行うようになると、韓・魏・趙の三氏がこれに反発。協力して紀元前453年に知氏を滅ぼします。

 

これによって晋はこの三氏が実質的に三分することになったわけです。春秋時代の最強の諸侯だった晋が韓・魏・趙の三氏に分割され、前403年は、周の威烈王が韓・魏・趙の三氏を諸侯として公認したことによって七雄と言われる有力諸侯が分立するという戦国時代の態勢がかたまりました。

越の滅亡

覇者となった勾践の越は戦国の七雄には数えられません。紀元前334年に越の西側の楚国により滅亡させられてしまうためです。

海洋民族であった越人は北の山東半島沿岸部から遼東半島を経由して朝鮮半島へ逃れた事でしょう。当時の馬韓のあたりでしょうか。

海洋民族であった越の人々は朝鮮半島や日本列島の情報を持っていたのかもしれません。

 

温暖な朝鮮半島南部は既に縄文人や呉の移民が住んでいたので、しぶしぶ寒冷な北部の馬韓に移住したといったところでしょうか。

 

 

反対に越国の南へ逃れた人は越南=現在のベトナムの方へ行ったと思われます。

 

南へ逃れた越人は、現地の百越族(三皇五帝の三皇の一角である神農の末裔)と共同して閩越(びんえつ)を樹立しています。