古代史好きなサラリーマンのブログ

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楚の滅亡 熊襲のルーツと素戔嗚

 

キングダムで最大の強敵となる楚(そ)の滅亡と移民が日本列島にやって来ていた可能性について考えてみました。日本神話に登場する素戔嗚との意外な繋がりもまとめています。

 

 

楚の滅亡

紀元前334年に越を倒した楚は面積でいえば中国の国土の半分を制覇したことになります。

しかし、西の秦国が進出してくるようになり、紀元前229年には秦と楚の戦いが始まります。

キングダム1巻より

李信将軍が率いる秦軍を楚の項燕に敗れる城父の戦いで破りますが、紀元前224年には再び攻めて来た秦軍に敗れ、楚王負芻(ふすう)が捕虜となるという事態が発生します。

項燕は代わりに昌平君を王としてたてて抵抗しますが、紀元前223年、王翦と蒙武が楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し楚国は滅亡します。

キングダム34巻より 昌平君

 

楚の移民が朝鮮半島へわたった?

滅亡した楚の遺民は海を渡って朝鮮半島へ逃げ延びたと考えられます。

 

温暖な朝鮮半島の南部には縄文人や呉の移民が既におり、西部の馬韓には越の移民が既に住んでいましたので、山や谷が多い荒地である西の辰韓へ移住しました。

魏志韓伝』によれば、「古の秦国は始皇帝から逃れて朝鮮半島にやってきた。馬韓辰韓の王として任命されて辰韓の邑に称号を与える役割であったが小国のため武力で統一することはできなかった。」とあります。

 

楚の移民は日本列島にやってきた?

 

記紀神話で大和政府に抵抗した古代の九州南西部の豪族に「熊襲(クマソ)」がいます。

手塚治虫火の鳥』より

戦国時代に滅亡した楚の王族の姓は「羋姓熊氏(びせいゆうし)」であり、熊と楚という字から熊襲と呼ばれたのではないか、とする説があるのです。

楚は長江流域の畑作の民であるため、稲作の民が住まなかった火山地帯である南部九州へ住んだと予測します。

阿蘇山の蘇も元は楚から来てたりするのでしょつか。

 

楚の神を祀る神社

平安京の宮中(大内裏)の宮内省において応仁の乱頃まで鎮座した神社に園(その)神社・韓(から)神社があります。合わせて園韓神社(そのからかみのやしろ)と呼ばれています。

 

韓神と一緒に祀られている事から、朝鮮半島由来の神であると思われますが、園神(そのかみ)は楚の神から来ているのではないかと思うのです。

 

奈良の漢国神社(奈良県奈良市漢国町)の社伝では、同社の創建について推古天皇の時に大神君白堤が園神の大物主命を、のち養老年間に藤原不比等が韓神の大己貴命少彦名命を祀ったとしています。そして、同社祭神が宮中に勧請されたのが園韓神社の創建になるとしています。

 

『大倭神社註進状』によると、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫であり疫から守る神であるとしています。

 

素戔嗚(すさのお)といえば、朝鮮半島新羅天孫降臨したと『日本書紀』にありますから、素戔嗚のルーツが辰韓に逃れた楚の移民ではないかと思われます。

出雲国風土記』では素戔嗚を「熊野大神櫛御気野命」、「熊野加武呂命」と記しています。出雲にある熊野大社も楚の神=楚王朝を祖先として祀っているのかもしれませんね。

 

まとめ