古代史好きなサラリーマンのブログ

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衛氏朝鮮の滅亡と武帝

 

この記事では前漢の領土を朝鮮半島まで広げた武帝についてまとめていきます。

 

 

前漢武帝とは?

劉邦が漢を勧告しておよそ、60年あまりがたったころ(紀元前2世紀)になると、第七代皇帝の武帝(即位:紀元前141年)が郡県制(地方の貴族ではなく中央政府が派遣した役人が領主となる制度)の施行地を拡大し、ほぼ中国全土への統一的支配を実現していきます。

 

さらに、武帝は漢の領域の拡大にも力を入れていきます。中国南部や朝鮮半島への郡県制の範囲としたのです。

上の武帝の時代が前漢の最大領域です。

漢帝国の統治が朝鮮半島まで及ぶ

中国全土の郡県制を強化し、古代から続く貴族(諸侯)の弱体化に成功した武帝は、朝鮮半島にも兵を派遣します。

当時の朝鮮半島には、北部には燕の軍人であった衛満が建国(紀元前206年)した「衛氏朝鮮」が、南部には呉、越、楚の移民や縄文人が混在して暮らす領域が広がっていたと思われます。

 

武帝漢帝国に従うものは公に任命し、背くものは滅ぼしていき、紀元前108年には、朝鮮北部の衛氏朝鮮が滅ぼされます。

 

漢四郡の設置

衛氏朝鮮武帝によって滅ぼされた紀元前108年には、漢から派遣された役人(太守)の役所として漢四郡(かんしぐん)が設置されました。

漢四郡は、楽浪郡(らくろうぐん)、玄菟郡(げんとぐん)、臨屯郡(りんとんぐん)、真番郡(しんばんぐん)の4つの郡で、日本史で登場する『漢書地理誌』に登場する楽浪郡はこれを指しています。

楽浪郡衛氏朝鮮があった場所を中心に置かれました。  臨屯郡と真番郡は、もともと衛氏朝鮮が服属させていた臨屯国、真番国があった場所を中心に置かれました。玄菟郡は、衛氏朝鮮があった場所よりも北方の地域に置かれました。

玄菟郡を設置した場所は、衛氏朝鮮の領域ではなかったため、高句麗(こうくり)や沃沮(よくそ)など朝鮮半島北部の異民族から反感を買うことになります。