この記事では前漢の置いた漢四郡が廃止された紀元前1世紀の朝鮮半島についてまとめています。
漢四郡の廃止
紀元前108年に設置された漢四郡のうち2郡は26年後に廃止されることとなります。

紀元前82年前漢の第八代皇帝の昭帝は赤字経営であった漢四郡のうちの2郡、真番郡、臨屯郡を廃止します。

遠方まで多くの兵を派遣するためコストに対して、朝鮮半島から得られるリターンは小さかったのでしょう。
背景として昭帝の時代には無駄を省き国力を回復させることが目指されていました。先代で父にあたる武帝が高齢になると反乱(巫蠱(ふこ)の禍)が発生するなど国力が低下していたためでした。
濊の南下

臨屯郡には狩猟採集を営む民族が住んでいました。漢民族からは濊(わい)と呼ばれ、漁撈や狩猟を主とするツングース系民族です。
濊(わい)は住む地域によっていくつかの集団に分けられ、臨屯濊(りんとんわい)と沃沮濊(よくそわい)が主でした。臨屯にすむ濊は、衛氏朝鮮に服属していましたが、前漢の紀元前128年、武帝に協力して衛氏朝鮮に反逆し、前漢に服属しています。臨屯郡の設置により、前漢とは海産物の交易を行っていたようです。
紀元前82年に臨屯郡が廃止され前漢の支配が及ばなくなると事件が発生します。紀元前75年に貊(かい)※が残された2郡のうち、玄菟郡を攻撃をし、玄菟郡の支配領域が北西の高句麗県へ移り、玄菟郡にいた沃沮・濊貊は楽浪郡の管轄へ移ったとあります。※貊(かい)ツングース系であり濊と近縁な民族。

貊の攻撃を受けた濊は、楽浪郡のある北西へ逃れただけでなく、南の辰韓へ逃れた人々もいたと思われます。

紀元前1世紀の朝鮮半島に住む民族のイメージ図です。朝鮮半島北部の東側には漢民族、西側にはツングース系民族、南側には呉、越、楚の移民と縄文人が住んでいたと想像しています。
DNAでみる朝鮮半島
呉人(O2b)越人(O2a)楚人(O1a)
縄文人(D1a2)
玄菟郡の移転
紀元前75年になると、玄菟郡は高句麗県から西の遼東半島へ縮小移転されています。元の場所には高句麗侯が冊封されました。高句麗侯は後に高句麗王を名乗ることとなります。