この記事は賀茂氏のルーツを調べるために京都にある「角宮(すみのや)神社」を参拝した記録です。
角宮神社を参拝

角宮神社(すみのやじんじゃ)京都府長岡京市井ノ内南内畑の住宅街の中にポツンと鎮座しています。

本殿の前の広場に御神楽があります。

境内には本殿と摂社のみです。
現在はわずかな敷地となってしまっていますが、1000年前の平安時代には、上賀茂神社、下鴨神社と共に京都を守護する格式の高い(式内名神大社)神社です。

角宮神社とは?
御祭神
火雷神 ほのいかづちのかみ
玉依姫命 たまよりひめのみこと
建角身命 たけつぬみのみこと
活目入彦五十狹茅尊 いくめいりひこいさちのみこと
春日神 (三神)かすがかみ

式内名神大社「山城国乙訓郡 乙訓坐大雷神社 」の論社 乙訓坐大雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)略して乙訓社(おとくにしゃ)とも言う。 乙訓坐火雷神は、玉依姫の夫神で『山城風土記逸文』の賀茂伝説に丹塗矢(にぬりや)の古事によれば、賀茂建角身の娘、玉依比売が瀬見の小川より流れて来た丹塗矢を枕元に置いて寝ると別雷命を生んだ (中略) 丹塗矢は乙訓郡の社に坐す火雷命である」とある。別雷命 その子である別雷神を祭神とする上賀茂社、玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大繁にあずかる名神大社として社格の高い社であった。 初見は『#続日本紀』の大宝二年(702年)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221年)で灰燼に帰し安易に復照を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮当)にあったが、文明十六年(12)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。
賀茂氏と縄文人の関係

角宮神社の社伝によれば、賀茂一族である玉依姫が丹塗矢を枕元に置いたら孕った伝説を紹介しつつも、父は乙訓坐火雷神(おとくににいますほのいかづちのかみ)としています。

乙訓坐火雷神とは乙訓(オトクニ)=オト国、坐(イマス)=いらっしゃるという意味から乙訓の火雷神という意味です。火雷神は日本古来(おそらく渡来人が来る前の縄文時代※)から信仰される自然の神なので、自然の神を信仰していた一族と婚姻関係を結んだエピソードを神格化しているのではないでしょうか。
(※『古事記』において火雷神は伊弉諾が黄泉の国へ行く際に登場する。神の世代としては古いことからアニミズムを信仰する縄文時代以来の神と考えた。)
あるいは、玉依姫は火雷神を祀る儀式を取り仕切る巫女だったのかもしれません。玉依姫という名前は古事記、日本書紀によく出てきます。玉のように美しい姫という意味のほかに、神霊を宿す巫女という意味があります。
賀茂氏の祖先神は平安京の守護神へ
8世紀の794年になると天皇の中枢は平安京に遷都されます。元はこの地域を古来から治めていた賀茂氏が平安京の造営に尽力したのでしょうか。
子の別雷命は上賀茂神社の祭神となり、玉依姫と建角身命は下鴨神社の祭神となり、後に平安時代の天皇(例えば嵯峨天皇と薬子の変)から厚い信仰を受けています。
角宮神社も上の2社と並んで名神大社となっていることから、延喜式が作られた平安時代の頃には格式の高い神社だったのでしょう。祈雨・鎮火の神として朝廷から崇敬されていたようです。

荒廃したきっかけはおそらく鎌倉時代の承久の乱 で後鳥羽上皇に味方したことでしょう。承久の乱で社殿が焼失し、幕府からマークされ復興が許されなかったのでしょう。
次回の記事ではさらに賀茂氏のルーツに迫ります。