前回の記事では中国神話からベトナム神話を経て文朗国が成立し、滅亡していくまでの流れをまとめました。今回はその後のベトナムの古代史を見ていきます。
蜀泮(しょくはん)が甌雒(おうらく)を建国

戦国時代になると、文朗国に古蜀の民が流入して、百越の民と共存することとなります。そのきっかけが紀元前316年の秦による古蜀の滅亡です。

滅亡した古蜀の民を率いて南下してきたのは、古蜀の王子である蜀泮(しょく はん:Thục Phán)でした。蜀泮(しょく はん)率いる古蜀軍と文朗国の百越が激突したわけです。

結果は古蜀側の勝利となり、前258年ベトナム初の王朝であった文郎国は古蜀の王子、蜀泮(しょく はん:Thục Phán)によって滅ぼされました。蜀泮(しょく はん:Thục Phán)が建国したのが甌雒(おうらく)です。
甌雒(おうらく)の滅亡
甌雒(おうらく)の繁栄は長くは続きませんでした。建国から50年ほどたった頃、紀元前208年に甌雒(おうらく)が南越国の趙佗(ちょうだ)によって滅ぼされます。

紀元前208年といえば、中華では秦の始皇帝が初めて中華を統一(紀元前221年)から10数年たった頃です。

甌雒(おうらく)を滅ぼした趙佗(ちょうだ)は元、
秦から派遣された官僚であり、南越国の将軍でした。つまり、漢人です。広東・広西ら三郡を秦から任せられていた身分でしたが、紀元前207年に項羽によって秦が滅亡すると独立して番禺を都とする南越国を建国します。

前202年劉邦が項羽を倒し漢王朝を開きますが、疲弊したのか、独立した南越国を攻める体力はなかったようです。

劉邦は、南越王を認め、王として任命することで、臣下として支配する形式をとりました。
南越国の滅亡
南越国が滅亡するのは漢の武帝の時代です。紀元前111年10万の大群によって滅ぼされたといいます。
これによりベトナムは10世紀半ばまで漢人の直接支配下となります。