以前訪問した大阪府平野の神社(式内楯原神社)には継体天皇を輩出した息長氏の歴史が伝わっています。息長氏といえば近江や福井を拠点とした豪族であったと想像しますが、実は大阪にゆかりのあるようなのです。
北村某の家記とは
今回の記事は『北村某の家記』がベースとなっています。
「北村某の家記」とは、『大阪府全志』に収録されている、旧喜連村の北村某なる人物が所蔵していた文書である。本来は3巻からなった(1巻:神代から仁徳天皇の治世までは若沼毛二俣王、2巻:醍醐天皇の延喜17年(917年)までは息長真若麻呂、3巻:後小松天皇の応永19年(1412年)までは北村治良麻呂の撰)と伝える。元和年間に兵火で焼失したため、焼け残ったものを補綴して1巻にまとめたものが『北村某の家記』であるという。その内容は、楯原神社の由緒とその創建に関わった息長氏の事績に加えて、喜連村に点在する古塚や字にまつわる伝承が盛り込まれており、『大阪府全志』は「口碑は此家記より出しにはあらざるか」と推察している。Wikipediaより一部改変
息長氏のルーツは大阪か?

『北村某の家記』によると、倭建命(ヤマトタケル)の王子、息長田別王(おきながたわけのみこ)は、(おおどのくに)大々杼郷(摂津国住吉郡伎人郷、現在の大阪府平野区の喜連)に天くだり、そこの国造だった黒城という者の娘、黒姫を娶って、杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)を儲けたとあります。つまり息長田別王(おきながたわけのみこ)と咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)は大阪に住んでいたとしているのです。

大々杼国(おおどのくに)で息長田別王(おきながたわけのみこ)は狭山池の水を引いて田地を広げ、川(水路)を掘って水を淀川に注がしめたといいます。

息長の姓は、大々杼郷を流れる息長川(現在の今川)に由来しており、享保年間の『摂津志』や安永年間の『名所図会大成』に「息長川」の名がみえるそうです。

狭山池とは大阪狭山市内にある日本最古のダム式溜池で、『古事記』では垂仁天皇の皇子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)が作った、『日本書紀』では崇神天皇の時代に作られたとされています。
杭全(くまた)の由来は咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)?

咋俣長日子王には3人の王女が生まれ、真ん中の息長眞若中比賣(おきながまわかなかつひめ)は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)を生みます。応神天皇の時代に、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)も同地に天くだり、母の妹の百師木伊呂辨(ももしきいろべ)を娶って、7人の子を儲けます。

仁徳天皇の時代になってから、その7人の子の中で、大郎子(別名:意富富杼王)は近江に渡って近江の息長氏の祖となり、沙禰王(さねのみこ)は現地の息長氏を継いだとあります。

また大々杼郷は、咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ)の名をとって、後世「杭全郷」と改名されたとあり、これは今の大阪市東住吉区の杭全(くまた)とう町名に残っています(平野区喜連の北西に隣接)
継体天皇へ受け継がれる息長氏の血筋

大阪の息長氏とゆかりの地である大々杼国(おおどのくに)は後の天皇の名前にも受け継がれています。

後の時代に第25代武烈天皇が崩御し天皇の後継者がいなくなった時に、応神天皇の5世孫として継体天皇が第26代天皇として即位したと記紀に記されています。
継体天皇の名前は「おほどのおう」 『日本書紀』では男大迹王、『古事記』では袁本杼命であり、近江に渡って息長氏の始祖となった意富富杼王から受け継いだと思われる名前となっています。
まとめ
・『北村某家の家記』によれば息長氏のルーツは大々杼国(おおどのくに)(大阪府平野区喜連)にある
・継体天皇の祖先として系図に登場する若沼毛二俣王と意富富杼王は息長氏の一族である
・継体天皇の「おほどのおう」は大々杼国(おおどのくに)から受け継いでいる可能性がある