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呪術廻戦と日本史:悪路王大嶽のモデルは東北のアテルイ伝説なのか

この記事では『呪術廻戦』に登場する 特級叛霊「悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)」のモデルとなった人物や元ネタについて考察します。

 

 

『呪術廻戦』の悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)とは?

『呪術廻戦』より

悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)とは『呪術廻戦』に登場する特級叛霊で、髙羽との闘いの際に羂索の能力によって登場した特級呪霊です。

 

見た目は筋骨隆々な肉体に3本の角、4つの目に、巨大な斧を持っており、人間離れした姿をしています。

『呪術廻戦』より

その強そうな見た目と、特級呪霊という設定とは裏腹に髙羽史彦の能力を前に、トラックに轢かれて一発退場してしまいましたね。

 

 

悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)のモデル・元ネタは?

悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)は悪路王と大嶽という2人の実在した日本の歴史上の人物をモデルとしているようです。

大嶽は西日本の伝説?

大嶽のモデルは平安時代の伝説「大嶽丸(おおたけまる)」です。

大嶽丸は伊勢国(現在の三重県)と近江国(現在の滋賀県)の間にある鈴鹿山(すずかやま)に住んでいたと伝わる鬼神で、文献によって呼び名が異なり、鬼神魔王、大だけ丸、大竹丸などと記されているようです。

 

大嶽丸は山を黒雲で覆って暴風雨や雷鳴、火の雨などを起こす神通力を持っていたといいます。大嶽丸の伝説は平安時代初期に起こった政変「薬子(くすこ)の変」が伝説化したという説があります。

 

​​薬子の変とは、弘仁元年(810年)平城上皇の寵愛 を得ていた藤原薬子(ふじわらのくすこ)が、兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)らとともに平安京から平城京への遷都を企てて、失敗に終わった事件です。

薬子の変の首謀者である藤原仲成は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって鈴鹿山で滅ぼされますが、坂上田村麻呂が亡くなった弘仁2年(812年)の秋から疫病が流行し、原因は田村麻呂が鈴鹿山で退治した賊徒の祟りであると考えられました。

そこで、鈴鹿山の西にある二子山の峰に田村麻呂を祀る神社を建立したところ疫病は治まったと言われています。

このように薬子の変坂上田村麻呂鈴鹿山で討った藤原仲成の怨霊の話が後世に語り継がれ、鈴鹿山の大嶽丸伝説の基となっていったのです。

 

悪路王は東日本の伝説?

 

悪路王(あくろおう)は、古くは鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国(現在の青森、岩手、宮城、福島)の伝説上の人物で、文献によっては、悪来王、阿黒王とも記されています。

 

茨城県鹿嶋市宮中にある鹿島神宮の『白馬祭の由来記』によれば、藤原実久によって記された天福元年(1233年)の『鹿島神宮文書』の一節に悪来王の名前が登場します。

 

後堀河院の御世に、関白藤原道家朝臣のご子息であった征夷大将軍頼経が、悪来王を退治するために関東へ下向されたと…

鹿島神宮が鎮座する茨城県には悪路王の首の像が残っています。

 

悪路王大嶽(あくろおうおおたけ)とアテルイ伝説

ねぶた祭りアテルイ

東国の伝承として語り継がれる悪路王のモデルになったのは平安時代坂上田村麻呂と戦った蝦夷(えみし)のリーダーである阿弖流為(あてるい)だったとする説があります。

阿弖流為(あてるい)は坂上田村麻呂に敗れて降伏し、802年河内国(現在の大阪)で処刑された人物です。坂上田村麻呂が仏殿を建立した京都の清水寺には阿弖流為(あてるい)を供養する石碑がありますね。

 

続日本紀』には桓武天皇の時代の第一次征討にて鹿島神宮の兵を東北に派遣した事が記されています。この時に蝦夷と戦った、鹿島神宮の兵が敵の棟梁である阿弖流為アテルイ)を「アクロウ」と発音したのが悪路王伝説の始まりなのでしょうか。

『呪術廻戦』では悪路王大獄は特級呪霊とは異なる「特級叛霊」としています。詳細は不明ですが、「叛」という字は「叛乱(はんらん)」を表す意味がありますので、朝廷に仇なした民族、つまり蝦夷の長、阿弖流為をイメージしたと考察できますね。

 

 

シン陰流は現代の剣道にも受け継がれているらしい…!?