台湾には人類がいつから住み始め、どのような歴史を歩んできたのでしょうか。この記事では、氷河期にユーラシア大陸と陸続きだった時代から、独自の文化を育み、やがて多様な民族が行き交う交差点となった台湾の歴史をまとめていきます。旧石器時代の「左鎮人」の謎、新石器時代に花開いた「大坌坑文化」とオーストロネシア語族の太平洋への拡大、そして中国の史書に記された台湾の姿まで、時を超えた人々の営みに迫ります。
台湾の旧石器時代
台湾島にはいつから人類が住み始めたのでしょうか。それは氷河時代の頃だったと考えられています。

旧石器時代の台湾島はユーラシア大陸と地続きでした。約260万前~紀元前1万年前(1,200万年前)の更新世の氷河期時代(最終氷期)最大で海面は140m低かったためです。ユーラシア大陸から台湾島まで200kmの距離がある現在の台湾海峡は繋がっていたのでした。

この頃大陸から食糧となる獲物を追いかけて人類が台湾島にやって来たと考えられています。

台湾で発見されている最も古い現生人類として、台南市左鎮区一帯で発見された「左鎮人」がおり、9つの頭蓋骨と歯の化石が発見されています。約2-3万年前に活動したとされる左鎮人がどのような生活様式を持っていたのかは不明です。

生活様式がわかっているのは、台東県長浜郷の八仙洞遺跡で発見された約5万年前の遺跡が台湾最初の文化と考えられています。ここでは漁労・採集が行われ大量の打製石器や骨角器が発掘されています。同時代の遺跡が中国南部からも発見されていることから、同一の民族と見られ、左鎮人も同様の生活様式を持っていた可能性があります。
台湾の新石器時代
台湾の新石器時代は紀元前5,000年頃(約7,000年前)に台湾全土で栄えた大坌坑(だいぶんこう)文化から始まります。大坌坑文化は表面に縄目のある土器や発達した磨製石器を使用し、漁労採集を中心としながら一部の根菜類や果物も栽培していたとされています。

大坌坑文化は旧石器時代を受け継いだのではなく、浙江省寧波市付近で約7,000年前から約5,500年前に栄えた河姆渡(かぼと)文化と関連(水稲栽培や漆器)すると考えられています。この文化の担い手はオーストロネシア語族と考えられており、もともとは中国南部に住んでいた人が海峡を渡ってやってきたと考えられています。
オーストロネシア語族とは

オーストロネシア語族とは台湾から東南アジアの島々、ハワイやチリのイースター島、ニュージーランドまで広がっていった集団です。(Y染色体ハプログループO1a)

かつては、オーストロネシア語族は南方から北上して来たと考えられていましたが、近年は中国大陸南部の沿岸部に住んでい他人々が台湾を経由して拡散していったと考えられています。つまり、オーストロネシア語族→マレーポリネシア語族が派生したということです。
遺伝子解析の結果から、一部のオーストロネシア語族は沖縄や日本本土にも到達したことがわかっています。日本語とオーストロネシア語は文法は全く異なるものの、音韻体系が非常に似通っています。
南方に渡ったオースロネシア人は後に磨製石器や航海術などの南方の進んだ文化を台湾に持ち帰る形で再度台湾に移住し原住民となっていきました。
台湾に残っていた元々のオーストロネシア人は自然と消滅し、南方系のオーストロネシア人に置き換わっていたったというのが最近の新説のようです。
コロンブスもびっくり!オーストロネシア語族とアウトリガーカヌー

『リロ・アンド・スティッチ』より
ちなみにこれらの人々が海を航海するときに使用されたのが、片側に浮きがついた「アウトリガーカヌー」や両側に浮きがついた「ダブルリガーカヌー」です。これらの船は従来の船よりも転覆しにくく、この発明によってこれほどまでにオーストロネシア語族は大規模に太平洋に島々に拡大していったものと考えられます。

発達した航海技術を利用したオーストロネシア語族は、インドシナ半島に定着し、先住民のネグリット系民族(Y染色体ハプログループE系統)と混血を遂げ、一部はマダガスカルにも定着して黒人とも混血しています。太平洋側に移動した人々は今日、太平洋の島々とニュージーランドに定着したり、一部はアメリカ大陸にまで到達したようです。また、中東地域の国々と貿易しながら、アラビア半島、アフリカの角の国々、一部の北アフリカ諸国の人々にも遺伝的影響を与えたことがわかっています。
紀元前3,000年(約5,000年前)になると大坌坑文化は地域別の文化に分かれていきます。この頃には台湾全土に穀物の農耕が広まり、家畜が飼育され、本格的な定住型の集落が形成されはじめます。死者を埋葬し副葬品を埋めるなど原始宗教的な信仰もあったとされています。
台湾の鉄器時代
台湾には青銅器時代は無いと考えらえており、西暦のはじめごろ、鉄や銅などの金属工芸品が台湾に現れるようになります。当初これらは台湾地域以外からの貿易品でしたが、西暦400年ごろおそらくフィリピンからもたらされた製鉄技術を利用して現地で鉄が生産されるようになったと考えられています。
この鉄器時代に台湾各地に様々な文化が現れ、比較的規模の大きな部族連合が出現してきます。

代表的なものとして西暦200年から1,500年ごろまで続いた、新北市八里区に位置する十三行遺跡は台湾ではじめて確認された製鉄を行った遺跡です。近くを流れる川の砂鉄を溶かす溶解炉が発見されています。
十三行遺跡は1955年に台湾空軍のパイロットが飛行中に羅針盤の異常を報告した事から調査され先史時代の遺跡であることが発見されました。
十三行遺跡で生活していた民族はわかっていませんが、ケタガラン族が関係しているとする説があります。
台湾の黒い小人の伝説
原住民が現在の居住地に移り住んだ時にすでに現地に既に住んでいた古い住人であった可能性があります。
黒い小人の特徴は身長が150㎝以下と低く、皮膚は黒く髪は縮れ、農耕をよく行い、聡明で狡猾、呪術にもよく通じていた、農高を教わったり戦闘を行ったりしたと伝わっているようです。
台湾の原住民であるサイシャット族に伝わる伝承によると、黒い小人は台湾に最も古くから暮らしていた人であり、多くの技術を伝授してくれたがサイシャット族の女性にいたずらをしたため全員殺してしまった。この伝承がサイシャット族の伝統的な祭りである「パスタアイ」の起源と言われており、2年に1度彼らの魂を供養するために4日間にわたって夜通し踊り明かすそうです。
台湾の各地に残る黒い小人の伝説は中国南部からやって来て、台湾に残った原オーストロネシア人であったのではないかと考えられます。現在の台湾の原住民の多くは遺伝子的に、南方に移住して再度台湾に戻ってきた人々(マレー・ポリネシア人)であると考えられており、彼らが台湾にもどってきた際に、台湾にとどまった原オーストロネシア人と接触した記憶が黒い小人伝説として残っているのではないでしょうか。
中国の文献に登場する台湾

台湾について始めて中国の文献に登場するのは、3世紀の前半、三国志で有名な呉の孫権が魏との闘いに備えて、他国で兵を集めようとしたエピソードがあります。
『三国志』の呉志によると、黄龍2年(230年)孫権が衛温と諸葛直に兵1万を率いさせ、夷州(いしゅう)・亶州(たんしゅう)へ派遣した。亶州は海にあり、古くは始皇帝が徐福を海に派遣して、蓬莱山と不老不死の仙薬を求めさせたが戻らなかったと伝わる。伝説では数万戸と人民がおり、たまに呉の会稽(かいけい)にやって来て布を商いしたり、会稽人が海で嵐に会って亶州へ流される者もいた。しかし、亶州は遠く兵をえることができず、代わりに夷州(いしゅう)で数千人を得て帰った。
この亶州が日本で、夷州が台湾であったとする説があります。この時の日本はというと『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を派遣(238年)しており、親魏倭王の称号を得ています。
636年に書かれた『隋書』の流求伝には、607年、608年隋の煬帝が朱寛を派遣して流求に朝貢を求めた。610年1万人以上の兵力を派遣して討伐し捕虜数千人を連れ帰る。流求国は海中にあり、建安群の東に当たり水行すること5日にして至る。
かつて、『隋書』が示す流求は沖縄であると考えらえていましたが、このとき朱寛が訪れたんは台湾であるとする説が有力となっているようです。『隋書』には流求の文化についても記載があります。
文字はなく、月の満ち欠けを見て、時節をしるし。草の枯れたり青くなるのを見て年歳とする。人は深目、長鼻で、西方の胡人に似ている。男子は髭鬢(しびん)(ヒゲをぬくこと)、身体で毛のあるところはすべて除去する。婦人は墨で手に入れ墨をし虫や蛇の文様を入れる。
目が大きく、鼻が高く、西方の胡人似ているという特徴から、当時の隋に住む漢民族とは明らかに異なるオーストロネシア人が住んでいたことがわかります。
まとめ
・新石器時代に台湾にやって来たオーストロネシア語族の集団はやがて太平洋へ拡散した
・台湾を出て海洋に出たオーストロネシア語族が世代を超えて再び台湾に戻って来た結果黒い小人の伝承が生まれたか
・中国の史書によれば三国志の時代に呉の孫権が台湾に兵を派遣している