古代史好きなサラリーマンのブログ

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岡山旅③:吉備真備を祀る吉備大臣宮

この記事は岡山の吉備大臣宮へ訪問した記録です。

 

 

矢掛町の由来

岡山旅行2日目は宿泊先の井原市から岡山市吉備津神社へ向かいます。途中に「吉備大臣宮」があったので立ち寄りました。

吉備大臣宮が鎮座するのは岡山県小田郡矢掛町(やかげちょう)です。矢掛町の由来は清流に家屋の影が美しく映っていたことから「屋影」と呼ばれるようになった説があるそうです。

井原市から小田川に沿って西へ車を走らせます。天気が良くて小田川が美しく、地名の由来にも納得です。途中、桃の直売してたので買えばよかった、、

吉備大臣宮に参拝

吉備大臣宮は吉備真備(きびのまきび)を祀る神社です。

参道を進み、鳥居を2つくぐると御拝殿

御拝殿を横から見た図

吉備真備公園として整備されており、巨大な銅像もありました。

吉備真備とは?

吉備真備遣唐使として第43代元正(げんしょう)天皇717年に出発し、経書(儒学の経典)、史書天文学、音楽、兵学を学び、16年後の734年に帰国した人物です。

    第一学習社『日本史図表』より

帰国当時の吉備真備の官位は「従八位下」と下級官人でしたが、帰国後の功績から正六位下にまで、十階昇進となりました。

第一学習社『日本史図表』より

帰国後は奈良の大仏を作ったことで有名な第45代聖武天皇の元で政治の中枢に参画しました。

当時の日本では天然痘が大流行しており、737年に藤原四兄弟天然痘で相次いで亡くなった後、第40代天武天皇の孫である橘諸兄(たちばなのもろえ)が実質的な政治的トップとして政権を掌握し、遣唐使の中でも優れている吉備真備と玄昉を取り立てたのでした。

藤原広嗣の乱『女帝の手記』より

太宰府に派遣されて怡土城(いとじょう)を築造したり、藤原広嗣の乱(740年)を鎮圧したり、阿部内親王(後の孝謙天皇)の家庭教師となるなどして、最終的には右大臣となります。

手塚治虫火の鳥 鳳凰編』

この時代に皇族や藤原氏以外で、これだけの地位に就いたのは、吉備真備平安時代菅原道真の二人だけではないでしょうか。

 

吉備真備は何者?

 

吉備真備大化の改新が終わって約50年後の695年に現在の岡山県倉敷市真備町(まびちょう)で誕生しました。(奈良で生まれたとする説もある)

吉備地方豪族である下道(しもつみちの)氏を父に持つことから、第10代崇神天皇の代に四道将軍として吉備へ派遣され吉備津彦の子孫で、4世紀に吉備地方に大規模な前方後円墳を作った一族の末裔ということです。

 

遣唐使に派遣された当時は「従八位下」と下級官人だったので8世紀には下道(しもつみちの)氏は地方豪族に過ぎませんでしたが、やがて745年には聖武天皇から「吉備氏」を賜り、吉備真備と名乗ります。

 

吉備氏の先祖に関する記事は下

 

吉備真備の一族の系図をまとめると次のようになります。

第7代孝霊天皇の皇子の吉備津彦が派遣されたことから始まり、応神天皇の時代に下道国造となった一族の末裔が吉備真備であり、聖武天皇の時代には下級官人であったが、活躍して由緒ある先祖の姓である「吉備」の名前を賜ったと言うことですね。