古代史好きなサラリーマンのブログ

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八咫烏は実在したのか?

この記事では、各地の神社に残された社伝を紐解きながら、日本神話に登場する八咫烏(やたがらす)の正体について考察していきます。

 

 

八咫烏(やたがらす)とは?

神武天皇八咫烏

八咫烏とは初代天皇である神武(じんむ)天皇が九州から大和へ東征した神話の中で、神武天皇の道案内をし、体を輝かせることで敵の目をくらませて、勝利に貢献したと言われる神様です。

太陽の化身とされる三本足のカラスで、サッカー日本代表のエンブレムとしても使用されていますね。

八咫(やた)とは、親指と中指を広げた長さが1咫(あた)で、その8倍なので、だいたいiPhoneを縦に8個並べたくらいの長さですから、八咫烏とはかなり大きなカラスですね。

 

八咫烏の正体とは

 

八咫烏は実在した人物がモデルとなっている可能性があります。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)という人物です。

815年に嵯峨天皇の命により編纂された、平安時代初期の古代氏族名鑑『新撰姓氏録』によれば、八咫烏は鴨県主の祖である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏に変身し、神武天皇を導いたとされています。

賀茂建角身命は、神魂命(かみむすひのみこと)の曾孫にあたる高天原に属する神で、鴨県主(京都の上賀茂神社下鴨神社を祀る)の氏族の始祖です。

八咫烏の神話が賀茂建角身命神武天皇を助けたという史実を反映しているのであるとすれば、賀茂建角身命はどこからやって来たのでしょうか。

 

賀茂建角身命は九州からきた?

山城国風土記』には賀茂建角身命のたどった道筋が書かれています。

賀茂建角身命日向峯(たけ)に天降(あも)りた神である

②やがて神倭伊波礼彦命(かむやまといわれひこ)(後の神武天皇)の先導役として大倭(やまと)の葛城山に宿り、

④そこらから移動して、山代国(山城国=現在の京都府)の岡田の賀茂に移り住み、

⑤山代川(現在の木津川)に沿って北上して、久我国の北の山基にて鎮まる

 

と書かれているのです。『古事記』や『日本書紀』を編纂するのに各地の『風土記』※が元となっているのであれば、八咫烏の神話は『山城国風土記』から来ているのかもしれないですね。

(※『続日本紀元明天皇和銅6年(713年)に諸国に対して風土記の編纂を命じた。古事記は712年、日本書紀は720年に編纂された(完成した)とされるが、編纂が開始されたのは天武天皇の時代=西暦600年の終わり。実に100年かかりのプロジェクトである)

 

さて、上記の『山城国風土記』に記された地には現在でも賀茂建角身命にまつわる伝承が残されているのでしょうか。

①宮崎県延岡市に鴨神社(かもじんじゃ)がありますが、文治年間(1185~1190)に京都の加茂神社を勧請して創建されたとあるため、関係なさそう。他に賀茂建角身命をご祭神として祀る神社はなし。

 

②日向を出た賀茂建角身命がたどり着いたという大倭の葛城山(=奈良県大阪府の県境にそびえたつ山)の周辺には、賀茂氏にゆかりのある2つの神社があります。

・高鴨神社(奈良県御所市鴨神)

阿治須岐高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)と下照比売命(したてるひめのみこと)の二柱を祀る式内社

・鴨都波神社(かもつばじんじゃ)(奈良県御所市)

積羽八重事代主命と下照姫命に二柱を祀る式内社

 

名前に鴨が付く上記2つの神社は、賀茂建角身命は祀られていません。阿治須岐高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)や下照比売命(したてるひめのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子であるため、出雲系の神社であることがわかります。

①の宮崎県に賀茂建角身命を祀る神社がないこと、賀茂建角身命が初めて到着した葛城山周辺には出雲系の鴨神社が多いことから、賀茂建角身命は日向ではなく、出雲出身ではないのか?と思えてきました。

 

大和から京都へ

④山代国の岡田の賀茂

岡田鴨神社のお手水舎の八咫烏

京都府木津川市加茂町北には岡田鴨神社(おかだかもじんじゃ)式内社があり、賀茂建角身命が祀られています。

⑤木津川にそって北上し、久我国にとどまる

賀茂建角身命は北上した木津川の周辺には賀茂建角身命を祀る式内社がありました。

乙訓坐火雷神社の社伝によれば、賀茂建角身命乙訓坐火雷神社が鎮座する向日山にしばらくとどまり、この地で、賀茂建角身命の娘の玉依姫火雷神と交わり生まれたのが、加茂別雷神であるとされています。

そしてさらに北上した京都府京都市北区紫竹下竹殿町に式内社の久我神社(くがじんじゃ)があり、賀茂建角身命が祀られています。

久我神社は現在は賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)の境外摂社となっています。

賀茂別雷神社上賀茂神社)の祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)であり、下賀茂神社の祭神は玉依姫賀茂建角身命です。

 

賀茂建角身命と出雲の関係

山城国風土記』によれば宮崎→奈良→京都へと移動したとされる賀茂建角身命の足跡は、奈良・京都に鎮座する神社の祭神として残されていることが確認できました。

 

そして、これらの賀茂建角身命に関連する神社の共通点として「出雲系」の神にゆかりがあることに気が付きました。

赤字は出雲系の神

宮崎に賀茂建角身命を祀る式内社が存在しないため、賀茂建角身命が日向に天孫降臨した神話が後付け(神武天皇に合わせて作られた設定?)であるとするならば、賀茂建角身命の出身は出雲地方だったのではないでしょうか?

新撰姓氏録』で賀茂建角身命の先祖とされる神魂命(かみむすひのみこと)は『出雲国風土記』に登場しますし。

 

そして、神武天皇の東征に協力した賀茂建角身命は、奈良、京都に古くから入植したいた出雲一族の力を借りながら、北上し、最終的に現在の京都を自らの拠点として開拓したのではないでしょうか。

 

 

まとめ

神武天皇を導いた八咫烏賀茂建角身命である

賀茂建角身命の足跡は『山城国風土記』に残されており、賀茂建角身命を祀る神社は出雲の神と関連がある

賀茂建角身命は日向からやって来たのではなく出雲からやって来た可能性がある