前回はゲルマン人の大移動からゲルマン民族によって作られた国家の一つに「フランク王国」があることを紹介しました。
世界の歴史マップより
今回はフランク王国と神聖ローマ帝国についてまとめていきます。
フランク王国の分裂
フランク王国は支配地域を拡大していき、ローマ教皇との繋がりも強めることでキリスト教世界でも大きな影響力を持つようになります。
9世紀頃になると大きくなりすぎたフランク王国では権力争いが起き、フランク王国は3つに分裂することになります。
フランス、イタリア、ドイツの原型ですね。
神聖ローマ帝国の成立
3つの王国には王がいましたが、王の権力は強くなく有力貴族を凌駕することはできていませんでした。そこで、東フランク王国のオットー1世は王でなく皇帝として国をまとめ上げようと考えます。
オット一世はローマ教皇に会いに行き、皇帝の称号を与えられます。オットー1世が皇帝となったことで東フランク王国は「神聖ローマ帝国」となります。
962年なので「オットーの苦労に、戴冠を」で覚えましょう。
オットー1世の後も皇帝の称号は受け継がれていきますが、皇帝の力は弱く形式的なものへと成り下がっていきます。
神聖ローマ帝国内では諸侯が独自の国を作り統治していくようになります。それぞれの国を領邦とよび、治める諸侯を領邦君主と呼びます。
中国の春秋時代、日本の平安時代の武士の登場に似た流れを感じますね。
神聖ローマ帝国の皇帝の権威は安定しない時期が続いていきましたが、協力に領邦君主をまとめ上げる皇帝が現れます。
それが「ハプスブルク家」です。
ハプスブルク家の歴史
ハプスブルク家はヨーロッパの歴史上最も著名な一つの家と言っても過言ではないでしょう。
ハプスブルク家とは一体何者なのでしょうか?
一言で言えば、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパへやってきたゲルマン民族の末裔です。[ゲルマン民族の大移動に関する記事]
ハプスブルク家の源流を遡ると、7世紀から10世紀にかけて、現在のドイツ南西部の一部からフランス東端部におよぶアルザス地方を支配したゲルマン系の小貴族「エティション家」に由来します。
その起源はフランク族、ブルグント族、西ゴート族などの諸説がありますが不明です。
ハプスブルク家の祖は、エティション家のグントラム金満公であり、皇帝オットー1世の時代(10世紀)の人物です。
グントクラム金満公の孫ラートボトが1020年から1030年ごろ建設したハビヒツブルク城がハプスブルク家の由来となったと言われています。(最初に王家の文書でハプスブルクの名前が使われたのは1108年)
ハプスブルク城は11世紀から13世紀に居城となったスイスのバーゼルとチューリッヒの西にある。
ハプスブルク家は十字軍遠征で没落した領主や相続者のない家系を吸収するなどして勢力を増していきます。
そして始祖ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことが、ヨーロッパ支配への大きな第一歩と言えるでしょう。
1273年神聖ローマ帝国の諸侯は、新たな皇帝に、スイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世を選出します。
これはルドルフ1世が理想的な君主として選出されたのではなく、ベーメン王オトカルが野心満々だったので、弱小のルドルフ1世を選出しようという算段でした。
しかし、ルドルフ1世は、ベーメン王オタカル2世を1278年のマイヒフェルトの戦いで破ってオーストリアの地を獲得し、栄光あるハプスブルク家の始祖となりました。