古代史好きなサラリーマンのブログ

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国号はいつから日本になった?倭国と日本国の違い

この記事では、中国の歴史書や古代の記録をもとに、「倭国と日本国の違い」と「国名が変わった背景」について解説します。

 

 

 

国号はいつから日本になった?

「日本」という国号は7世紀後半に生まれ、701年の大宝律令で法的に完成したというのが定説です。

 

670年前後(天武・持統天皇のころ)それまでの日本は、「倭国」と呼ばれていましたが、「これからは『日本』という新しい名前を使おう」と決められました。

 

これは、海外の記録に「670年」という数字が残っていることからわかります。

• 『新唐書』(中国の史料):「670年に使者がやってきた。彼らは倭という名を嫌って、日本と改称した」

• 『三国史記』(朝鮮半島の史料):「670年、倭国が号を日本に改めた。日の出る所に近いから名付けたという」

 

背景には、663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した危機感がありました。国民を一つにまとめるために、天武天皇や持統天皇の強力なリーダーシップのもとで新しい国号が考案されたと考えられています。

 

実際に、701年に制定された大宝律令※には、「我が国の公式な国号は日本である」と正式に定められています。 (※大宝律令の原文は失われているので改訂版の養老律令)

 

「日本」という国号が名実ともに100%確定したのです。

 

 

『旧唐書』に記された二つの国 

倭国から日本に国号が変わった事について興味深い記事が中国の歴史書にあります。

 

『旧唐書(くとうじょ)』※では「倭国伝」と「日本国伝」がまるで別の王朝であるかのように記載されているのです。

※中国の五代十国時代、後晋の時期に劉昫(りゅうく)らが編纂した唐代(618年〜907年)の歴史書

 

史料には以下のような説が併記されています。

 「日本国は倭国の別種なり」(日本国は倭国とは別の王朝・勢力である)

 「倭国が自らその名を悪んで、日本と改めた」(倭国が国名を日本に変えた)

「日本はかつて小国だったが、倭国の地を併合した」(日本という勢力が倭国を吸収・併合した)

 

このように、当時の中国(唐)にとっても「倭国から日本国への変化」は単なる改名なのか、王朝の交代・併合なのかについて複数の説が書き残されているのです。

 

日本国が倭国を併合した?

 

この記事を根拠にして、大和にあった日本国が、白村江の戦いに敗れて弱体かした九州の倭国を併合したのではないかとする九州王朝説があります。

 

古田史学氏などの立場では、この「倭国」は九州王朝を中心とした東アジア外交の主役であったと考えられています。

 

つまりは、57年の漢委奴国王や102年の帥升、3世紀の邪馬台国の卑弥呼や5世紀の「倭の五王」、隋に遣隋使を派出した時代はいずれも「倭国」の実績ということになります。

 

倭国王が一貫して中華に冊封して王として任命される事を望むのは、倭国王の家系がもともと大陸の王家の血筋だったからという説があります。

 

中国の皇帝に任命された王でしたが、やがて倭国王自ら天子を名乗るようになります。天子とは天帝という神によって地上の統治を認められた称号なので元号を定めることができます。これが九州王朝の天子が作った九州年号です。

 

その後、白村江の戦い(663年)による大敗と、壬申の乱(672年)という大和政府内部での権力闘争を経て、近畿の大和朝廷(律令国家)が主導権を握ると、国号を正式に「日本」へと改めます。

 

701年の「大宝律令」制定や、703年の粟田真人(あわたのまひと)らによる遣唐使の派遣などを通じて、中国側にも「日本国」として認識されるようになりました。

 

  『旧唐書』の「日本が倭国を併合した」という記述が示すように、近畿の大和朝廷が旧来の「倭国」勢力を統合・統一し、律令国家としての「日本国」を完成させていったと考えられます。

 

まとめ

  • 国号の変化は「日本の誕生」を意味する
  • 「倭国」 は、中国古代史料に記録された、卑弥呼や倭の五王に代表される国家体制である
  • 「日本国」は7世紀後半~8世紀初頭に律令制とともに成立した、近畿中心の中央集権国家である
  •  単なる名前の変更ではなく、国家の体制や主権が大きくシフトした歴史の節目こそが、「倭国から日本国への変化」だった

幻の王国「日高見国」蝦夷とマオリ族の共通点

この記事では、日本書紀に登場する「日高見国」の位置や建国された時期、日高見国に住む蝦夷たちのルーツについて考察します。

 

日高見国とは?

「日高見」とは字の如く「太陽が高く昇るのを見る場所=東方の果て」を意味します。

『ヤマトタケル』3巻より

日高見国についての記述は、『日本書紀』と『常陸国風土記』に残されています。 

 

『日本書紀』の景行天皇記において、東国から帰還した武内宿禰(たけうちのすくね)は天皇に次のように奏上しています。

 

  「東夷(あずまえみし)の中、日高見国あり。その国の人、男女ともに椎結(かみをわけ)身を文(もどろ)けて、人と為り、勇み悍(こわ)し。是をすべて蝦夷(えみし)と曰ふ。また、土地沃壌(よくじょう)こえて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」

 

 ここで語られる「身をもとろげて」とは、全身に刺青(タトゥー)を施しているという意味です。

 

この記述から、日高見国に暮らしていたのは大和朝廷から「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々であったことがわかります。

 

武内宿禰の報告を聞いた景行天皇は、東国にヤマトタケル(日本武尊)を派遣します。

 『ヤマトタケル』3巻より

ヤマトタケル(日本武尊)の東征(蝦夷征討)の場面でも日高見国が登場します。

 

  即ち蝦夷の境に入る。則ち賊首等の魁帥(かしら)、敢えて王師を拒ぐ。日本武尊、称えて曰さく、「吾は是現人神(あらひとがみ)の子なり。何ぞ敢えて服わざる」と。『日本書紀』(景行天皇40年10月条)

 

 ヤマトタケルが「自分は現人神(天皇)の子である。なぜ服従しないのか」と威厳を示すと、恐れおののいた蝦夷たちは服従を誓ったとあります。すなわち、ヤマトタケルが蝦夷征討に成功し詠美氏が大和朝廷の支配下に入ったことを示しています。

 

そして蝦夷討伐の帰路について、次のように記されています。 

「蝦夷の国、既に平らけぬ。日高見国より還りて、西南に常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮(さかおりのみや)に居ます。」  『日本書紀』の景行天皇40年是歳条

 

ヤマトタケルは日高見国を平定した後、西南へ向かって常陸国(現在の茨城県)を通り、甲斐国(山梨県)へ抜けて帰還したとあるのです。

つまり、日高見があった場所は現在でいう山梨県の北東、茨城県よりも北ということが推測されます。

 

日高見国の範囲  

 

さらに、713年に編纂が開始され721年に成立した『常陸国風土記』には、次のような重要な記録があります。

 

 孝徳天皇・白雉4年(653年)、物部河内(もののべのかわち)・物部会津(もののべのあいづ)等、惣領の高向大夫(たかむこのまえつきみ)等に請ひて、筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて、信太(しだ)の郡を置けり。此の地は、本、日高見の国なり

筑波郡と茨城郡から700戸を分割して「信太郡(現在の茨城県稲敷郡周辺)」を新設した際、「この地はもともと日高見国であった」と明記されています。

 

これらの記述を総合すると、日高見国とは東北地方だけを指すのではなく、北関東(茨城県周辺)から東北全域にまたがる広大な文化圏・領域であったことが推測できます。

 

黒潮に乗ってきた人々

それでは、日高見国に住んでいた「蝦夷」とは一体どのような人々だったのでしょうか。

以前の記事では、パプアニューギニアなどで活動していた古代海洋民族が黒潮に乗って日本列島にやって来たとまとめました。(下記のブログ参照)

礼文島・船泊遺跡のゲノム解析  北海道の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した縄文人のゲノム解析を行うと、遺伝子系統樹においてパプアニューギニア人と共通の祖先から分岐しています。

 

共通祖先をもつ集団の一方は南へ(パプア方面)、一方は北〜東へ(日本列島方面)渡り、それぞれ数万年単位で孤立したというのが遺伝学的な解釈です。

神澤秀明ら『Anthropological Science』2019年論文 補足資料Fig. S7より引用・加工

つまり、縄文人の一部は、たしかに遥か南方の太平洋から海を渡ってきた海洋民族の子孫なのです。

パプアニューギニア系の遺伝子と繋がりを持ち、南太平洋の海洋文化を色濃く残す存在として、ニュージーランドの原住民「マオリ族」がいます。

 

マオリ族と古代蝦夷(エミシ)には、以下の共通点が存在します。

縄文時代の土偶には顔に入れ墨をほどこしたものが多く出土しています。


『ヤマトタケル』1巻より

『魏志倭人伝』の時代、そして神武天皇の東征の時代にも顔に入れ墨を入れる風習がのこっていたことがわかります。

 

日高見国はいつ作られたのか?

 南方から黒潮に乗って北上してやってきた集団が蝦夷のルーツであるとするならば、日高見国が作られたのはいつなのでしょうか。

 

彼らは、暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかる絶好の潮目である仙台湾・石巻周辺から上陸したと考えられます。

海洋民の足跡には、現在も「巨石」が残されています。 

  • 巻石(まきいし):石巻の地名の由来となった北上川河岸の巨石

  • 釣石(つりいし):宮城県石巻市にある釣石神社の御神体の巨石

  • 続石(つづきいし):岩手県遠野市綾織町にある巨石

 

さらに、続石の近くにある金取(かねどり)遺跡からは、約8万〜9万年前の地層から石器が出土しています。

南方系の海洋民がこの地に到達し、日高見国を築いたのはこの頃だと考えられます。

 

 

 

「日高見国」と「十和田王国」  の国境

北上川に沿ってさらに北上していくと、湯船沢環状列石・釜石環状列石(岩手県)、大湯環状列石(秋田県)といったストーンサークルが存在します。

しかし、釜石環状列石と大湯環状列石の間には険しい山岳地帯があります。  この山岳地帯を越える往来がなかったと仮定すると、北上川流域を中心とする「日高見国」と、十和田湖から流れる米代川周辺の「十和田国」という、異なる二つの縄文王国・文化圏が存在した可能性があります。

豪雨による被害予想マップより

 岩手県北部の分水嶺を境に、南側は北上川の源流(起点)となり太平洋へ注ぎ、北側は馬淵川となって青森県八戸市の日本海・太平洋側へ流れていきます。この分水嶺付近が亜寒帯気候・亜寒帯性植物の境界線となっています。

 

 現代でもこの境界線を挟んで言葉のアクセントが大きく変わります。境界線の北側(一戸町〜青森県八戸市)と境界線の南側(岩手町〜北上市)では、同じ「南部弁」エリアでありながら、方言のアクセントが異なるそうです。

マオリ族とナマハゲ

十和田圏域には海を渡ってきた巨大な鬼の伝説である「ナマハゲ」文化が根付いています。  ナマハゲのモデルは遠い昔にこの地にたどり着いた海洋民族なのでしょうか。

 

 常陸国(信太郡)に残る海洋民族の痕跡  

日高見国の南限とされる常陸国(茨城県)の信太郡周辺にも、海洋民族の痕跡が見られます。

  • 筑波山の巨石:弁慶七戻り(べんけいななもどり)

  • 大甕(おおみか)神社の「星の神」: 大甕神社では、全国的にも珍しい星の神(天津願星・香香背男)が祀られています。

海洋民族は広大な海を渡るため、星を見て方角を知る「スターナビゲーション(星間航海術)」を行っていたことの名残が、星の神への信仰に繋がったのでしょうか。

また、この地には、タケミカヅチやフツヌシといった大和朝廷側の神々によって打ち取られ、忠誠を誓わされたという平定神話が語り継がれています。

 

この神話は大和政権によって、海洋民の子孫である縄文人が平定され支配下に入ったことを語っているようにも思えます。

 

黄金をめぐる激闘とアテルイ伝説

 

 時代が下り8世紀末から9世紀初頭、大和朝廷は日高見国の領域への統制を本格化させます。

有名なのは、蝦夷の族長の阿弖流為(あてるい)と征夷大将軍・坂上田村麻呂の壮絶な戦いです。  阿弖流為(あてるい)は、延暦21年(802年)、坂上田村麻呂に降伏し、京都へ向かいました。

 

朝廷に対して坂の上田村麻呂は阿弖流為の存命を求めますが叶わず、延暦21年8月13日河内国で処刑されてしまいます。

 

廷がなぜこれほどまでに東北への侵攻を急いだのか。その背景には「金(ゴールド)」がありました。

 

当時、奈良の平城京では東大寺の大仏建立が進められており(743年~)、大量の金箔・黄金を必要としていました。

 

そんな中、宮城県の黄金山(こがねやま)金山で日本初の金が発見されます。大和政府が金脈と土地を力づくで奪いにきたため、自らの土地を守るべく蝦夷たちが立ち上がり、激しい反乱(蝦夷戦争)へと発展していったのです。

 

 岩手県一関市には、かつて「鬼死骸(おにしがい)村」という地名が存在しました。

 

これは、坂上田村麻呂が討伐した伝説上の蝦夷の首長・大武丸(おおたけまる)の死骸が葬られたという伝説に由来しています。朝廷側から「鬼」と恐れられた蝦夷の英傑たちの記憶が、地名として刻み込まれた一例と言えます。  

 

阿弖流為や大武丸の面は大きな鼻に鬼のようないかつい形相で作られていますが、上方をみると頭の上にお団子を作っており、南方からやってきた海洋民の特徴を残しています。

 まとめ

  • 日高見国は「太陽が高く昇る東方の果て」を意味し、茨城県(旧・信太郡)から東北地方にかけての広大な領域を指した

  • 縄文人の一部は黒潮に乗って北上した南方系海洋民(パプアニューギニア人やマオリ族と共通の祖先をもつ)であり、全身の刺青や髪型、巨石信仰、星間航海術にその痕跡が残る

  • 分水嶺(気候・方言の境界)を挟み、北上川流域の「日高見国」と、ナマハゲ伝説が残る米代川周辺の「十和田国」の2つの文化圏が存在した可能性がある

  • 平城京の大仏建立に伴う金(ゴールド)の獲得を目的に大和朝廷が侵攻し、阿弖流為(アテルイ)ら蝦夷が激しく抵抗した

さきたま古墳⑤関東王朝と斯鬼宮(しきのみや) 斯鬼宮(しきのみや)は関東にあった?

この記事では、国宝・埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた銘文と、そこに登場する「斯鬼宮(しきのみや)」の謎から、古代日本に関東独自の王朝が存在した可能性について考察します。 

 

 

 

鉄剣に刻まれた斯鬼宮(しきのみや)

  

1968年に埼玉県行田市の埼玉稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)には、115字に及ぶ文字が金象嵌で刻まれています。

 

(表)  辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比 (裏)  其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事來至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ)。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾 天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」

 

 銘文には「乎獲居臣(おわけのおみ)」という人物が「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」に仕え、その身辺を護衛する「上頭人(杖刀人)=じょうとうじん」として代々奉事してきた経緯が記されています。

 

そして、その活動の舞台として登場するのが「斯鬼宮(しきのみや)」という宮です。

 

通説では、「獲加多支鹵大王」をワカタケルと読み、記紀に登場する21代雄略天皇(大長谷若建命)に当てて、銘文表面の辛亥年を471年としています。

 

また、熊本県の江田船山古墳からも「ワカタケル」と刻まれた鉄剣が出土した事から、雄略天皇の頃には、大和王権が九州から関東までを治めていたとするのが日本史の定説となっています。

 

しかし、この「斯鬼宮」という場所がどこを指しているのかが、古代史における大きな論点となっています。 

 

斯鬼宮(しきのみや)は大和なのか?  

通説では、「斯鬼宮」は大和国(現在の奈良県)の「磯城(しき)」に位置する21代雄略天皇(大長谷若建命)の長谷朝倉宮=泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)を指すと解釈されています。

 

 しかし、『古事記』や『日本書紀』の記述を確認すると、雄略天皇(大長谷若建命)の宮は「初瀬朝倉宮」と記載されており、「斯鬼宮」は登場しないのです。

 

朝倉宮が磯城郡にあったことから「斯鬼宮」と言い換えているという説もありますが、なぜわざわざ鉄剣に斯鬼宮と記したのか疑問が残ります。  

 

『古事記』には、21代雄略天皇(大長谷若建命)が志幾之大県主(シキノオオアガタヌシ)の家が立派でけしからんといって焼き討ちする話がありますが、これが斯鬼宮なのでしょうか…?(詳しくは以下の記事)

埼玉県の稲荷山古墳鉄剣は金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)なのに対して、熊本県の江田船山古墳は銀錯銘鉄剣(ぎんさくめいてっけん)です。

 

通常は、金がNo1で銀はNo2を指すので稲荷山古墳の被葬者は王族かそれに準ずる人物で、江田船山古墳の被葬者は臣下のトップと考えられます。

 

これらが通説通りに大和政権の大王から送られたものならば、関東に王族・九州に臣下のトップが埋葬されたという記述が記紀に記されていないことにも疑問が残ります。

 

 

斯鬼宮(しきのみや)は関東?

 埼玉稲荷山古墳の周辺地域に目を向けると、かつて「しきのみや」と呼ばれていた場所があります。

稲荷山古墳から北東へ約30kmほどの場所にあたる栃木県栃木市藤岡町大崎には、かつて「斯鬼宮」という小字(こあざ)が存在し、現在も大前神社が鎮座しています。  

さきたま古墳郡の古墳はみな北東に傾けて作られており、その延長線上には大前神社があるのです。

5世紀後半の関東において、独自の大王(ワカタケル)を擁するローカルな政権=関東王朝が存在し、その宮の名前が「斯鬼宮」であったと考えられるのではないでしょうか。

獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)は雄略天皇ではない?  

 

「獲加多支鹵(わかたける)」という名は、通説では記紀に登場する第21代・雄略天皇(大長谷若建命)に比定されてきました。  

 

しかし「ワカタケル(若建)」という言葉自体は、武勇に秀でた若い王者を称える一般的な名辞(一般名詞)であった可能性があります。

 

例えば、記紀では多くの勇者のことを八十猛(やそたける)と表現しています。

なので、ワカタケルだけだと全国各地に存在する勇敢な若い勇者のうちの誰を指すのかわからないことになります。

日本全国に王朝があり各国に大王がいるイメージ図

そこで、『日本書紀』や『古事記』では、各地の同名人物と区別するために「大初瀬(オオハツセ)」といった地名をセットで記載しているのです。

 

一方で稲荷山古墳の鉄拳に「大初瀬」という地名がなく単に「獲加多支鹵(ワカタケル)」とだけ記されているのは、当時の関東中でワカタケルといえば、関東王朝の大王一人しかいないという認識があったからではないでしょうか。

 

となると、熊本県の江田船山古墳の大刀にある「ワカタケル」は九州王朝のワカタケルなのかもしれません。

 

 そう考えると、乎獲居臣(おわけのおみ)が仕えた関東大王家の「ワカタケルオオキミ」の墳墓は、大和ではなく関東の地に存在するのではないかという推察が成り立ちます。  

 

獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の古墳はどこ?

鉄剣が出土した事から、 ナンバー2(補佐役)の乎獲居臣(おわけのおみ)が葬られた稲荷山古墳は、全長約120mの前方後円墳です。  

 

大王であるナンバー1の墳墓であれば、稲荷山古墳を上回る規模を持ち、時期も5世紀末から6世紀前半頃定されます。

 

栃木県内では「摩利支天塚古墳(約117m)」などの大型前方後円墳が存在しますが、規模の面では稲荷山古墳と同等かやや小さめです。  

 

一方、稲荷山古墳と同じ埼玉古墳群の中に存在する「二子山古墳」は、全長約132mとさきたま古墳群の中で最大の規模を誇り、築造年代も6世紀前半と推定されています。

 

大きさや時期の条件を踏まえると、この二子山古墳こそが関東の「ワカタケルオオキミ」の墳墓であるという説は、夢がありますね。(二子山古墳は未発掘です)

 

左治天下の意味 由来は周の故事か?

最後に稲荷山古墳鉄剣に刻まれた「左治天下(さじてんか)」という言葉の意味に注目します。

「左治天下(さじてんか)」は、古代中国の周の初代武王(姫発)が亡くなり、子の成王が2代目として即位しましたが、幼少であったので、武王の弟の周公旦が摂政となり成王を補佐して天下を治めたという故事からきています。

 

 古代中国では、天子を左右から支える最高位の官職(のちの丞相・首相にあたる職など)を「左相」「右相」と呼び、彼らとともに政治を行うことを「左右して天下を治める」と言いました。

 

また、「左」は「右」よりも尊い、という意味を持っていました。  したがって、「左治天下」は「(優れた補佐役が)君主を助けて天下を治める」、という意味を指しています。  

 

鉄剣に「左治天下(さじてんか)」と刻ませた乎獲居臣(おわけのおみ)は、この故事の意味を知っており、若い頃の大王(ワカタケルと表現)を補佐した事を自負しているのです。雄略天皇に摂政の様な人物がいたという記録は記紀にはありません。

 

周の成王は成長した後も、摂政の周公旦に尊敬と感謝を伝えており、周公旦の子に対して、周公旦がなくなったときに天子と同じような礼で葬るようにと伝えています。  

 

さきたま古墳で乎獲居臣(おわけのおみ)が眠る稲荷山古墳が、ワカタケルオオキミが眠る二子山古墳とほぼ同規模なのは、故事にならって摂政のヲワケを大王と同等の規模で葬ったということが考えれます。

 

倭王武が、宋の順帝へ上表文持参の遣使をするのが478年で、稲荷山古墳鉄剣の政策が471年なので、関東王朝が倭王武の傘下に入る直前に乎獲居臣(おわけのおみ)は亡くなったと考えられます。

 

左治天下(さじてんか)するほどの実力者であった乎獲居臣(おわけのおみ)が亡くなった後、すぐに倭王武の傘下に入ったとすると、若い大王はそうせざるをえなかったのかもしれません。

 

 まとめ  

  • 稲荷山鉄剣に記された「斯鬼宮」は、通説では大和の初瀬朝倉宮とされるが記紀に直接の記述はない 
  • 栃木県藤岡町大崎には「斯鬼宮」の地名や神社が存在し、関東に独自の政権があった可能性を示唆している
  • 「ワカタケル」は武勇を称える一般名詞であり、大和の雄略天皇ではなく関東独自の大王だった可能性がある 
  • 関東の大王の墳墓としては、埼玉古墳群で最大規模を誇る二子山古墳(約132m)が候補として挙げられる  

ワンピースと世界史 イムが鎮座する空の玉座のモデル・元ネタは古代インド

 この記事では、『ワンピース』の「空の玉座」のモデル・元ネタが、古代インド特に、「転輪聖王」や「アショーカ王」との繋がっていることについて考察します。

 

 

ワンピースの空の玉座とは

『ワンピース』907話より

ワンピース907話では、聖地マリージョアのパンゲア城内に「空の玉座」があることが明らかになりました。

『ワンピース』907話より

空の玉座は約800年前、世界政府を創設した最初の20人の王たちが、「世界にたった一人の王は存在しない」「誰もこの玉座に座らない」という平和と平等の誓いを立てた象徴的な場所です。

 『ワンピース』907話より

玉座の周りには誓約の証として武器が突き立てられており、表面上は独裁の放棄を意味しています。

 『ワンピース』より

しかし、その後誰も座ってはならないはずの空の玉座にに「イム様」がどっしりと座ってる姿が描かれました。

 

 

 空の玉座のモデル・元ネタはブッダの空の玉座?

『ワンピース』の空の玉座のモデル・元ネタが古代インドにあった可能性について考えていきます。

古代インドや初期仏教の美術において、ブッダ(仏教を始めた人)の姿を直接描く代わりに、ブッダが座っていた場所を「ブッダの空の玉座」として表現していました。「ブッダがそこにいなくても教えは永遠に残る」ことを意味しています。上の壁画でも玉座の上にブッダは描かれていません。

 『ワンピース』より

チベットなどにあるストゥーパ(サンクスクリット語)はブッダの遺骨や高貴な僧の遺物、経典などを納め、る建造物は、ワンピースの空の玉座と似ており、モデルとなっている可能性があります。

 『ワンピース』1168話より

ストゥーパにはブッダの目が描かれることがあります。これは空の玉座に座っているイム様の目のモデルになっている可能性があります。

『ワンピース』より

イムをはじめ天竜人住む聖地マリージョアのモデルはインドの聖地ブッタガヤの可能性があります。

 

空の玉座はイムではなくジョイボーイのものか?

 

しかし、空の玉座には、本来ジョイボーイのものだったがイムに乗っ取られたのではないかと考えています。

前回の記事では、ジョイボーイの元ネタ・由来は古代インドに実在した「アショーカ王」であると考察しました。

アショーカ王は武力を一切放棄し、平和と仏教の教えを広めたことから、「転輪聖王(てんりんじょうおう)」と呼ばれていました。

 

つまり、ブッダの教え・考えの体現者として称賛されていた人物が、ジョイボーイのモデルであるということです。

 

空の玉座のモデルが、古代インドにおけるブッダの空の玉座であるとするならば、『ワンピース』の空の玉座がある聖地マリージョア本来の王は、ブッダの教えの体現者であるアショーカ王がモデルとなったジョイボーイだったのではないでしょうか。

 

まとめ  

  • ワンピースの空の玉座は、聖地マリージョア(パンゲア城)にあり、800年前に20人の王が「独裁の放棄と平和」を誓った象徴であるが、裏では「イム様」が座っている
  • 「空の玉座」のモデル・元ネタは、初期仏教美術で、ブッダの姿を描かず「教えが永遠に残る」ことを示すための表現である

  • ジョイボーイのモデルは、ブッダの教えを体現し武力を放棄した転輪聖王「アショーカ王」であり、聖地マリージョアはジョョイボーイが治めていた場所だったが、イム様に乗っ取られた可能性がある

 

ワンピースと世界史 ジョイボーイのモデル・元ネタはアショーカ王?

この記事では、『ワンピース』のジョイボーイのモデル・元ネタがアショーカ王となっている可能性について考察します。

 

ワンピースのジョイボーイとは?

エメトとジョイボーイ『ワンピース』1122話より

『ワンピース』に登場するジョイボーイは「空白の100年」の時代に活躍した、ワンピースの歴史上最初に「海賊」と呼ばれたとされる謎の人物です。

『ワンピース』1014話より

古代文字を使いこなして、謝罪文を刻んだポーネグリフを魚人島に残しています。

『ワンピース』より

また、ロジャー海賊団が発見して海賊王の称号を手に入れた伝説の島、ラフテルに「とんでもねェ宝」を残した人物もジョイボーイです。

『ワンピース』1122話より

エッグヘッドでは、エメトの中に結んだジョイボーイの覇気に気がついたイムさまが震えている描写も描かれています。

 

つまり、ジョイボーイは『ワンピース』の物語の根幹を担う人物なのです。

 

アショーカ王とは?

アショーカ王

アショーカ王は、古代インドのマウリヤ朝第3代の王として、インド亜大陸のほぼ全域を統一し、仏教による「法(ダルマ)」に基づく統治を行った人物です。

カリンガ戦争

アショーカ王はインド亜大陸を統一する途中の戦争(カリンガ戦争紀元前265年ごろ)で多くの死傷者を出したことを後悔し、武力による支配を放棄し、代わりに慈悲や道徳、非暴力といった仏教の教え(法・ダルマ)に基づいた政治を行ったといわれています。

 

ジョイボーイのモデル・元ネタはアショーカ王?

 『ワンピース』のジョイボーイの元ネタ・由来が アショーカ王である可能性について考えていきます。

アショーカ王は、暴力ではやく仏教と法により、国を治めるために、弱者への保護、医療施設の設置、植林、道作りなど、人々の幸福を願う政治姿勢や命令をしるした碑文を岩や石柱に刻んでインド各地に設置しています。

 紀元前3世紀(今は2300年前)に作られたアショーカ王の碑文は、現在も見ることができます。刻まれているのは、「ブラフミー文字」と呼ばれる古代文字です。

ワンピース22話より

岩に記された古代文字は、ワンピースに登場するポーネグリフに刻まれた文字のモデル・元ネタとなっていると思われます。

『ワンピース』より

ポーネグリフのモデル・元ネタがアショーカ王の碑文であるならば、ジョイボーイが謝罪した理由は空白の100年に行われた戦いに関する内容なのかもしれませんね。

『ワンピース』より

アショーカ王が像を兵器として投入した初めての戦いであるカリンガ戦争は古代インド史上最も悲惨な戦いとされています。ワンピースに登場する像、ズニーシャが罪を背負っているという設定のモデルは、アショーカ王のカリンガ戦争が由来となっている可能性があります。

アショーカ王は、武力ではなく法(ダルマ)で世界を治める理想的な王を意味する「転輪聖王(てんりんじょうおう)」と讃えられました。上の写真にはアショーカ王の後ろに転輪聖王(てんりんじょうおう)のシンボルである「法輪(ほうりん)」があります。

仏の世界における「転輪聖王(てんりんじょうおう)」は奈良の東大寺の大仏で有名な大日如来(だいにちにょらい)です。

前回の記事で紹介したとおり、「太陽の神ニカ」の元ネタ由来は、仏教(密教)における最高の仏であり太陽の象徴とされる「大日如来(だいにちにょらい)」です。

これは、ジョイボーイもルフィと同様にヒトヒトの実モデルにニカの能力者であることと繋がります。

大阪四天王寺にある法輪

転輪聖王(てんりんじょうおう)のシンボルである「法輪(ほうりん)」は、船を操縦するための「舵(舵輪)」にも似ていることは偶然ではなのでしょうか。

 

また、「アショーカ」という名には「悲しみのない(無憂)」という意味があり、人々を笑顔にする「ジョイボーイ」の名前のモデルになっている可能性があります。

 

 

まとめ

  • 『ワンピース』に登場するジョイボーイのモデル・元ネタは、古代インドの王。アショーカ王である可能性がある

  • アショーカ王は、武力を捨てて仏教(法)で国を治めたことから、転輪聖王とよばれている

  • アショーカ王の石碑(ブラフミー文字)が ポーネグリフもモデルある可能性がある

 

ワンピースと日本史 デービー・ジョーンズの正体・元ネタは日本神話?

この記事では、『ワンピース』に登場する「デービー・ジョーンズ」のモデルと元ネタが日本神話にあるとする説を考察していきます。

 

 

 

ワンピースのデービー・ジョーンズとは

ワンピース33巻より

ワンピースの中で「デービー・ジョーンズ」という名が初めて登場したのは、仲間を奪い合うゲーム「デービーバックファイト」の由来としてでした。

 

「かつて悪魔に呪われ、深い海の底で今も生きている伝説の海賊」として語り継がれています。

 

物語が進むにつれて、デービー・ジョーンズが重要な存在であることが見えてきます。

ワンピースより

伝説の海賊ロックス・D・ジーベックや黒ひげ(マーシャル・D・ティーチ)との血縁や関わりが判明するためです。

ワンピースより

ロックスは、デービー・ジョーンズがかつての世界の王だったと主張しています。

ワンピース1164話より

かつての世界の王だったとすれば、ワンピースの世界の空白の100年に王として君臨していたデイビー・ジョーンズが現在の世界政府に倒されてその名を歴史から消されてしまったということなのでしょうか。

  デイビー・ジョーンズは「空白の100年」に君臨した世界の王?

 ワンピース最大の謎の一つである「空白の100年」実はこの設定の元ネタは、日本の歴史にあるのではないかという説が考えられます。

 

 日本史を振り返ると、西暦266年に卑弥呼の継承者が中国へ使者を送った記録を最後に、約150年間にわたって中国の歴史書から日本の記録が途切れる「空白の4世紀」という謎の時代が存在します。

 

このぽっかりと開いた空白の時期が明けたとき、日本には「大和王権」が誕生しており、現在の天皇につながっています。

 ワンピースより

この「空白の歴史と新しい支配体制に切り替わった」という構図が、ワンピースにおける世界政府の成り立ちと似ているのです。

倭の五王 大和政権の大王とされる

例えば、日本史で空白の4世紀が明けた歴史書に真っ先に登場するのは「倭の五王」であり、これは世界政府の最高権力者である「五老星」の人数とも一致しています。

ワンピース1086話より

ワンピースの空白の100年か日本史における空白の4世紀を元にしているのなら、世界政府が成立する前にあった巨大な王国のモデルも日本の歴史がモデルになっているのではないでしょうか。

ワンピースより

実際に、日本の歴史において大和政権が誕生する前にきょ巨大な王国があったとする説があります。それが「出雲(いずも)」です。

 

日本神話から現在の天皇の大和政権に繋がる「出雲の国譲り神話」を見ていきましょう。

 

出雲の国譲り神話とは?

出雲大社より大国主像

大国主は地上(葦原中国あしはらなかつくに)を王として統治していました。

石ノ森章太郎『古事記』より

ところがある日、天の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が自分の子孫に地上を統治させようと考え、使者を派遣してきます。

大国主は天から降りてきた天の神の使者に対して平和的に「国譲り」を行い、自身は目に見えない世界の主となりました。

石ノ森章太郎『古事記』より

この時に大国主が国を譲る代わりに立派な社を建設することを約束させて建てられたのが、現在の出雲大社と伝わっています。

 

 

「出雲の国譲り」が行われたことで地上の支配者は大国主から天の神の子孫である現在の天皇に引き継がれていくというストーリーとなっています。

 

では、果たして本当に地上を治めていた大国主が突然やってきた天の神に支配を譲ったというのでしょうか?

 

ワンピースより

ワンピースのドレスローザ編では、突然やってきた天竜人のドフラミンゴが王位を剥奪する場面がありました。「勝者だけが正義」ドフラミンゴが繰り返し口にしていた言葉です。 

ワンピースより

出雲国譲りでも勝者にとって都合の悪い歴史が隠され、敗者は国を譲ったように描かれてしまったのでしょうか。

 

デービー・ジョーンズの正体・元ネタ日本神話の神「大国主」?

 

「世界の王」デービー・ジョーンズのモデルは、日本神話の出雲の国譲り神話に登場する「大国主(オオクニヌシ)」ではないかと考えています。  

 

デービー・ジョーンズが空白の100年に世界の王であったとしたら、「国を奪われ、深い海の底へ追いやられた王」という大国主の姿と、デービー・ジョーンズの設定が重なってくるのです。  

大国主は日本神話の神でしたが、のちに仏教と結びついて仏教を守護する存在である「大黒天」と同一視されます。 大黒天は手に小槌(ハンマー)を持って描かれることが多いです。

ワンピースより

ワンピースの作中でデイビー・ジョーンズの血筋とされるロックスの剣技がハンマーのように例えられています。

 

ワンピースより

そして、ワンピースで黒のイメージといえば、黒ひげティーチ。

ワンピースより

若い頃の黒ひげは大黒天の頭巾のような帽子をかぶっています。

 

黒ひげが海賊帽や海賊旗のモチーフ(3つの頭)を持っているのは、三面大黒天をモデルにしていると考えられます。

京都圓徳院より

三面大黒天は、最澄が比叡山延暦寺を建立する際に出現したという伝承があります。大黒天のモデルであるインド神話のマハーカーラーは3つの頭に6つの腕があるためここから来ていると思われます。

ワンピースより

黒ひげの定番のポーズも大国主のポーズに似ていますね。

ワンピースより

古代出雲の遺跡で有名なのは358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡。デービー一族が住んでいた島の名前はゴットバレー=神の谷。

 

ニカの正体・モデルは大国主の子の恵比寿?

大黒天と常にセットで信仰されてきた神に、「恵比寿」がいます。

石ノ森章太郎『古事記』より

恵比寿は元々は日本神話における大国主の子の事代主(ことしろぬし)が仏教の守護神となったものです。

ワンピースより

ワンピースで笑いの絶えない「エビス町」が登場しました。

ワンピースより

人々に笑顔をもたらす、笑う神ニカのモデルは恵比寿神なのでしょうか。

ワンピースより

黒を象徴する大国主=大黒天(黒ひげ)と、白や笑顔を象徴する事代主=恵比寿(ルフィ)が対比して描かれていそうです。

出雲大社のしめ縄

そして、出雲大社で祀られる大国主といえば「縁結びの神」として広く知られています。

人と人とを繋ぎ、絆を結ぶ神様。そう考えると、ワンピースの物語のゴールである「ひとつなぎの大秘宝(ONE PIECE)」の正体もまた、世界を一つに繋ぐ「人と人との絆や縁」そのものを指しているのかもしれません。

 

 まとめ  

  • 日本の歴史から姿を消した日本の「空白の4世紀」や「古代出雲」の神話が、『ワンピース』の空白の100年や世界政府のモデルになっている可能性がある
  •  デービー・ジョーンズのモデルは大国主=大黒天であり、物語の根底には「国譲り」や勝者による歴史の隠蔽というテーマが隠されている
  • 大国主の子である事代主=恵比寿がニカの元ネタである可能性がある
  • 「ひとつなぎの大秘宝」とは、縁結びの神に繋がる「世界を結ぶ絆」を意味しているのかもしれない

福岡旅:高良玉垂命と景行天皇の関係

この記事では、高良玉垂命を祀る高良大社に伝わる景行天皇の巡幸伝承を元に高良玉垂命と景行天皇の関係を考察していきます。

 

 

景行天皇とは

景行天皇(けいこうてんのう)は、記紀(『古事記』『日本書紀』)に伝わる第12代天皇です。大和朝廷の支配領域を九州・東国へと大幅に拡大させた大王として描かれています。  

 父は第11代垂仁天皇、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)で、古代の英雄倭建命(ヤマトタケル/日本武尊/小碓命)や、次代の成務天皇の父親として知られます。

 

80人以上の多くの子(皇子・皇女)がいたとされ、彼らを全国各地の国造(地方長官)や豪族の祖として配置・封じたと伝わっている子だくさん天皇です。

 

景行天皇が高良大社を訪れた

高良大社によれば、「西暦82年(景行12年)に12代景行天皇が(高良)の行宮に国内を遊覧し、御井の大川(筑後川)に渡し船を備える」とあります。

 

これは『日本書紀』における景行天皇(在位期間71年〜130年)の九州巡幸が記録と結びつけたものだと考えられます。

『日本書紀』では景行天皇が自ら7年かけて九州に遠征し朝廷に従わない勢力(土蜘蛛など)を平定しています。

 

景行天皇の帰還から約8年後、熊襲の首領である川上梟帥(かわかみのたける)が再び反乱を起こしたので、当時16歳だった日本武尊(ヤマトタケル)が父の命を受けて九州へ派遣されます。

手塚修『火の鳥』より

一方で、『古事記』には、景行天皇が九州へ赴いた記録がなく、代わりに子のヤマトタケルが九州の熊襲を討伐する記事があります。

 

神社は『日本書紀』の西暦と合わせていますが、『日本書紀』は卑弥呼と神功皇后の時代を合わせるためか、歴代天皇の寿命がとんでもなく長く(100歳以上)設定されていることから正確ではありません。実際に景行天皇が高良大社を訪れたとするならば、4世紀前半〜半ば頃(300年代)だと考えています。

 

景行天皇の巡幸ルートを見ると大牟田市御木→八女→浮羽となっているので、八女から浮羽に移動する途中に筑後川をわたるもしくは、筑後川から水路で浮羽に向かっていても矛盾はなさそうです。

ただ、『高良玉垂宮神秘書』では、高良玉垂命の兄が初代神武天皇だとしているのに、12代景行天皇の巡幸が高良玉垂命よりも先になっていることは矛盾が生じています。

高良大社歴史年表(高良大社HPより)

これはどういうことなのでしょうか。

 

 

高良玉垂命と景行天皇の関係

 

まず、高良玉垂命と景行天皇は無関係と考えます。エピソードが薄すぎるためです。

 

景行天皇に関する高良大社の記録は、「行宮を置き、筑後川に渡し船を用意した」という程度にとどまっており、現地に長期滞在した形跡もなければ、地元の有力豪族の娘と婚姻を結んだといった結びつき(同盟関係)も描かれていません。

 

そして、神武天皇の兄弟である高良玉垂命が景行天皇よりも後に登場する高良大社の年表の矛盾については九州王朝説を元に考えていきたいと思います。

まず、景行天皇は大和の大王ではなく九州の王という説があります。なので景行天皇は福岡や博多などの北九州には巡幸していません。

 

このとき筑後平野を治めていた豪族(高良玉垂命の先祖)は景行天皇との関係はなく、同族となっていなかったことを物語っているのではないでしょうか。

 

では、高良玉垂命が歴史の表舞台に大きく躍り出るのはいつなのか。それこそが「神功皇后の三韓征伐」の時代です。

 

200年 仲哀9年 神功皇后は天皇と共に筑紫に幸し、高良山に 御滞在(安在地・朝妻)。次いで朝鮮半島に出兵。 高良の神、神功皇后を援け給うと伝える。

 

九州王朝説において、三韓征伐は大和政権の遠征ではなく、九州王朝の女王「大帯姫(おおたらしひめ)」による出来事と解釈されます。

 

大帯姫(おおたらしひめ)を祀る香椎宮

そして、この時代の実質的な年代は、史料である七支刀(369年)や広開土王碑(391年〜の倭国との戦闘記述)が示す4世紀後半にあたります。

 

この大帯姫(おおたらしひめ)の遠征を軍事・渡海面で全面的に支えたのが、イソラ(阿曇磯良)や住吉(スミヨシ)に代表される「海の民」でした。

 

高良玉垂命の正体もまた、このスミヨシ(住吉)をルーツに持つ海の民の首長であり、筑後川流域の筑後平野を支配していた豪族であったと考えます。

 

高良大社の伝承によれば高良玉垂命は住吉一族である

大帯姫(おおたらしひめ)を助けた高良玉垂命は、彼女と婚姻関係を結び、これにより、高良玉垂命一族は九州王朝との同盟関係(血縁)を構築できたのです。

 

後に住吉3兄弟の長男の末裔が高良山に高良玉垂命を祀った理由は、高良玉垂命が一族と九州王朝を結びつけたキーパーソンであったからではないかと思います。

 

まとめ

  • 4世紀前半(景行天皇の時代):景行天皇が九州を巡幸(筑後川を渡る)。この時、筑後平野の豪族(高良一族)はまだ王権と同盟を結んでおらず、不干渉のまま通過する。
  • 4世紀後半(オオタラシヒメの時代/360〜390年代)海の民・スミヨシをルーツとする高良玉垂命がオオタラシヒメを支援し、婚姻を結んで九州王朝の重要勢力となる。
  • 高良玉垂命の兄が東を目指し、大和政権の祖(神武天皇)として合流・統合されていく。後世『高良玉垂宮神秘書』等で「神武の兄」として語られたのは、この「大和へ向かった王(神武)の源流・本家筋」という意味合いだった。
  • 西暦367年(高良玉垂命の創祀)オオタラシヒメとの同盟によって全盛期を迎えたスミヨシ3兄弟(長男の末裔ら)が、一族の偉大なる祖である「高良玉垂命」を高良山に祀る。これが年表にある367年の出来事となる。