古代史好きなサラリーマンのブログ

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三重旅:大若子命を祀る 櫛田神社を参拝

この記事は、三重県松坂市にある櫛田神社(くしだじんじゃ)を参拝し、伊勢神宮の神官である度会氏や全国各地の櫛田神社との関係性を考察しています。

 

 

 

 

櫛田神社(くしだじんじゃ)とは

櫛田神社(くしだじんじゃ)は、 三重県松阪市櫛田町 に鎮座する式内社です。

櫛田神社の場所

『延喜式神名帳』(平安時代・927年完成)の伊勢国多気郡(いせのくに たけのこおり)の条には櫛田神社(くしたの かみのやしろ)とあります。

 

博多祇園山笠より大若子命

主祭神:大若子命(おおわかこのみこと)

相殿神: 市寸嶋比売命、櫛玉命、櫛玉比売命、天忍穂耳命、建速須佐之男命、熊野大神 ほか

櫛田神社の由緒

神社の由緒によれば、垂仁天皇25年、天照大御神の御神体を奉じて旅をしていた倭姫命(やまとひめのみこと)が、この地で大切な爪櫛(つまぐし)を田んぼの中に落としてしまいました。それを見つけ出して献上したのが、地元を治めていた大若子命(おわかこのみこと)だったといいます。 

 

倭姫命はたいそうお喜びになり、   「このような小さな爪櫛が見つかるとは、まさに奇しきこと(『奇し=くし』と『櫛』の掛け言葉)。この地を櫛田と名付け、櫛田の社を置きなさい」  と勅命を下したと伝えられています。  

垂仁天皇の誕生年は180年ー270年の間と予測

11代垂仁天皇の時代といえば4世紀初旬ごろだと考えています。

 

櫛田神社(くしだじんじゃ)の祭神 大若子命とは

祭神の大若子命(おおわかこのみこと)は、伊勢神宮・外宮の神官を代々努めてきた、伊勢の豪族、磯部氏(後の度会氏)の祖先とされる人物です。

 

倭姫と大若子命

平安時代に編纂された『皇太神宮儀式帳』(804年)や『倭姫命世記』によると、大若子命は倭姫命を迎え入れ、自らの領地(櫛田川以東)を神領として伊勢神宮に寄進しました。その功績により「神主(かむぬし)」の職を授かり、これが代々伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)の最高神職を務めた度会氏の先祖であると記されています。

度会氏の系図によれば、始祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)です。尾張氏や海部氏や物部氏と同じルーツを持っていることがわかります。

 

鎌倉時代に編纂されたとされる『伊勢二宮ノ禰宜神主等系図』によれば、垂仁・景行天皇の時代、大若子命は朝廷の命を受けて北陸(越の国)の怪物退治・平定へと遠征します。その際、旗(幡)を掲げて戦い、また現地に機織りの技術をもたらしたことから「大幡主」の称号を得たとされます。

 

個人的には、3世紀末10代崇神天皇が大和で即位し、4世紀初旬に11代垂仁天皇の時代に倭姫が旧出雲国を訪問することで旧出雲勢力に大和政権への忠誠を誓わせていったと考えています。(3世紀初旬に銅鐸文化が消滅し、3世紀中旬に大和に箸墓古墳が作られる)その際に伊勢地方の王だった大若子命は倭姫を迎え大和政権の傘下として北陸のまつろわぬ民を平定したのではないでしょうか。

 

「宝塚1号墳」の舟形埴輪が証明する大若子命の伝承

なぜ伊勢の首長が、北陸の「機織りの神」や「大幡主」として各地に祀られることになったのでしょうか? 

宝塚1号墳の位置

櫛田神社からそう遠くない場所に位置する宝塚1号墳(5世紀前半)からは「舟形埴輪」出土しています。

宝塚1号墳出土の舟形埴輪 埴輪展にて撮影

この埴輪は、丸木舟の側面に波除けの板を立て、オール(櫂)を漕ぐための突起が造形された当時の「構造船」を再現しています。

 

 5世紀前半といえば、大和政権が朝鮮半島への出兵を盛んに行っていた時期です。 松阪を流れる櫛田川の水運を利用し、伊勢湾から知多半島、尾張、そして琵琶湖を経由して日本海(北陸)へと抜ける水運を掌握していた海洋民の存在が想像できます。

 北陸を目指す大若子命

大若子命が「北陸遠征を行って平定した」という伝承は、100%フィクションではなく伊勢湾の水運勢力が、日本海側へ航路を伸ばした史実が元になっているのでしょう。

 

櫛田神社(くしだじんじゃ)を参拝

 

櫛田神社の位置

松阪市と多気町の境を流れる一級河川「櫛田川(くしだかわ)」のの傍らに、ひっそりと鎮座していました。

 

近鉄山田線の「櫛田駅」から歩いて5分ほどの畑の中にありました。

櫛田神社にて撮影

神社の入り口には「式内 櫛田神社」と刻まれた石碑が目に入ります。

 

 

櫛田神社にて撮影

境内の面積はそんなに大きくありません。

拝殿

神紋は三つ巴でした。

本殿

 

日本各地に祀られる櫛田神社の祭神 大若子命

伊勢の首長である神は、はるか遠い越の国(北陸)や九州・博多の地(あの博多祇園山笠で有名な博多櫛田神社)でも祀られています。

 

全国の「櫛田神社」や「櫛玉」を冠する神社の分布を見てみましょう。 

 

  • 筑前国(福岡県博多): 博多櫛田神社(主祭神:大幡主命=大若子命)孝謙天皇天平宝字元年(757年)託宣によって三重県松坂市の櫛田神社から分霊され鎮座。
  • 佐渡国(現・佐渡市):賀茂郡の式内社・大幡神社の祭神は大若子命であり、北狄(阿彦)を討伐したために「大幡主命」と呼ばれるようになった。
  • 越後国(現・新潟県):魚沼郡の式内社である魚沼神社には阿彦の霊を祀るという伝承があるという
  • 加賀国(現在の石川県):石川郡の式内社・御馬神社は、御馬皇子が神を祀ったことを社名の由来とするが、『加賀国式内等旧社記』に「御馬明神 祭神 大若子命」とあり、その大若子命の子孫(一説に御馬織連(みまおりのむらじ))がこの地にとどまり御馬皇子と呼ばれ、祖先神を祀ったものだと考えられている

  

    記紀神話に登場しない大若子命が遠く離れた各地の神社伝承に登場するのは、史実を反映しているのか、あるいは伊勢参りの時に仕入れてきたネタを各地で語り継いだのか。真相は謎です。

 

まとめ

  • 櫛田神社は、三重県松阪市に鎮座する式内社で、垂仁天皇の時代、天照大御神を祀る地を探していた倭姫命が落とした串を地元の豪族である大若子命が見つけ出したことが社名の由来である
  •  大若子命は、伊勢神宮・外宮の最高神職を代々務めた渡会氏(度会氏)の先祖であり、系図上の始祖神は天火明命(あめのほあかりのみこと)とされる
  • 倭姫命に自らの領地を神領として寄進し、大和政権傘下の伊勢の首長として従属・協力した
  •  大若子命は朝廷の命で北陸の反乱勢力(阿彦など)を平定し、機織り技術をもたらしたことから「大幡主(おおはたぬし)」の称号を得たと伝わる
  •  大若子命の北陸討伐や機織り技術の伝達、その子孫の定着にまつわる伝承・式内社が各地に残されている

三重旅:豊受大御神を祀る伊勢神宮・外宮を参拝

この記事では、伊勢神宮・外宮を参拝した時の発見をまとめています。

 

 

伊勢神宮・外宮とは?

 

伊勢神宮・外宮(げくう)とは、三重県伊勢市豊川町に鎮座する伊勢神宮の2つの正宮のうちのひとつです。

 

『延喜式神名帳』には「度会宮 四座」と記載され、大社に列しています。

 

祭神

豊受大御神(とようけのおおみかみ)

神社本庁は「米をはじめ衣食住を与えてくださる産業の守護神」としています。

豊受大御神

トヨウケの「ウケ(ケ)」は「食物・気」を意味し、一般的には農業・穀物の神とされます。

 

他の食物神に保食神(うけもちのかみ)や宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)などがいますね。これらの食物神は後に、稲荷神と同一視されるようになり、地域によっては稲荷神社に豊受大御神(とようけのおおみかみ)が祀れている場所もあります。

『古事記』『日本書紀』における豊受大御神の系図

豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、『古事記』によれば、では伊邪那美命(いざなみのみこと)から生まれた和久産巣日神(わくむすひのかみ)の子と記されています。

 

『日本書紀』には、伊邪那美命(いざなみのみこと)の孫として、稚産霊(わくむすひ)が登場しますが、豊受大御神(とようけのおおみかみ)は登場しません。

 

同様に、『古事記』には、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したとあるのみで、『日本書紀』には記載がなく、伊勢神宮・外宮の鎮座の由来は記されていません。

 

平安時代の804年に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、創建は、伊勢神宮・内宮成立の約500年後、21代雄略天皇の時代に丹波からお迎えされた御饌津神(みけつかみ)(=食物を司る神)を祀ったのが始まりと伝えられています。

 

21代雄略天皇の夢に伊勢神宮・内宮の祭神の天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。『止由気宮儀式帳』にはそれが何年のことであるという記述はないが、『大神宮諸雑事記』の第一「雄略天皇」の条に「即位廿一年丁巳」、すなわち雄略天皇21年とある。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った。外宮の鎮座は内宮の鎮座から484年後のことであるという記述があるが、天皇の在位期間を機械的に西暦に当てはめて計算すると、その年数が一致しない。 Wikipediaより

雄略天皇の誕生年は390年ー410年の間と予測

雄略天皇22年ということは、5世紀中ごろ(460年ごろ?)だと考えています。これは後述します高倉山古墳の築造年代と一致します。(伊勢神宮・外宮によれば『日本書紀』の西暦換算を元に、雄略天皇の即位22年目は西暦 478年 としている)

伊勢神宮・外宮の歴史

 

伊勢神宮・外宮の奉仕にあたってきたのが、度会氏(わたらいし)です。現代でも、JR・近鉄の伊勢市駅からまっすぐ伸びる外宮参道。そして周辺に広がる「度会郡(わたらいぐん)」という地名が残っています。

 

地名を元に度会氏を賜る

度会氏(わたらいし)は古くから伊勢地域に住んでいた海人族の磯部氏(いそべし)が、伊勢神宮が鎮座する土地の地名(三重県伊勢市度会郡)にちなんだ「渡相(わたりあい/のちの度会)神主」の姓(かばね)が下賜された記事が『続日本紀』和銅4年(711年)3月16日条にあります。

度会氏の系図

度会氏の伝承や古典文献(『先代旧事本紀』や度会氏の家系図など)によれば、渡会氏は、丹後・尾張・尾張連などの祖神である天火明命(アメノホアカリ)の子孫としています。

倭姫と大若子命

『皇太神宮儀式帳』(延暦23年・804年)および『倭姫命世記』によれば、11代垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の御神体を奉じる巡行で伊勢に到達した際、この地を治めていたのが大若子命(大幡主命)であったと記されています。大若子命は倭姫命を迎え、伊勢の地(度会)を神領として捧げ、宮殿の造営や神事の奉仕を助けた功績により、「神主(かむぬし)」の職を授かり、これが代々外宮の神職を務める渡会氏(度会氏)の始まりとされています。

 

度会氏の祖神である、天火明命(アメノホアカリ)といえば、豊受大御神(とようけのおおみかみ)が鎮座していた京都府宮津市にある丹後一宮 元伊勢籠神社で祀られる神です。

 

21代雄略天皇の時代に丹後から伊勢に豊受大御神(とようけのおおみかみ)が祀られたのは、同族関係にある2氏族間での分霊だったということですね。

伊勢・尾張・丹後・大和・出雲には、共通の祖先を持つ信仰の痕跡があり、これは銅鐸文化圏と一致するため、かつて巨大な銅鐸同盟(出雲連合)があったと考えています。

伊勢神宮・外宮を参拝

JR・近鉄伊勢市駅から徒歩で5分ほどの位置にあります。

伊勢神宮・外宮にて撮影

伊勢神宮・外宮の駐車場はなんと無料です。驚きました。

伊勢神宮・外宮の鳥居と拝殿

立派な鳥居と神殿。鳥居の内側の拝殿と本殿は写真撮影禁止でした。

鳥居の外から本殿を撮影

外宮の千木は外削ぎ(垂直)になっていました。

 

千木の形状は男神・女神の区別をあらわしますが、女神を祀る神殿の千木は水平(横向き)のはずです。

 

21代雄略天皇の時代にとようけおおかみが祀られる前に渡会氏が信仰していた男神の名残が千木に反映されているのでしょうか。

境内にあった磐座。説明は無し。

 

風の神であるシナツヒコを祀る風宮

オオツチノミオヤノカミを祀る土宮

亀石

正宮から多賀宮(たかのみや)や風宮(かぜのみや)へ向かう途中の「中の御池」に架かる大きな一枚岩の石橋があり、「亀石(かめいし)」と呼ばれています。

 

亀石は外宮の背後にある三重県最大級の横穴式古墳「高倉山古墳」の石室の扉(蓋石)であったと伝えられています。

 

風宮・土宮を過ぎて石段を上ると、多賀の宮に着きます。

多賀宮ではとようけのおおみかみの荒御魂を祀ると言われています。

多賀宮にて撮影

多賀宮の千木も同様に外削ぎでした。

 

 

伊勢神宮・外宮にある高倉山古墳

高倉山古墳の場所

外宮の敷地内にある標高116mの高倉山の山頂には、高倉山古墳(たかくらやまこふん)が存在します。

 

高倉山古墳は横穴式石室を持つ大型前方後円墳(または円墳)で、築造時期は5世紀後半(400年代末〜500年代初頭)と推定されています。

 

石室に冬至の夕日が差し込むという古代の太陽信仰を感じます。

 

高倉山古墳が築造された5世紀後半は、25代武烈天皇が崩御した頃か、もしくは26代継体天皇の時代です。

 

記紀には「雄略天皇の夢枕にアマテラスが立ち、豊受大御神を丹波から呼んだ」と記されています。21代雄略天皇の時代は5世紀中旬なので、豊受大御神が祀られた20-30年くらい後に、この高倉山古墳が築造されたということになります。

 

大和政権の命により聖地に他の地域の神(とはいっても同族が祀る神だが)が祀られたことに対抗するように、この伊勢の地(度会郡)を支配していた渡会氏が神聖な山の山頂に古墳を造ったように思われます。

 

度会氏のプライドと伊勢神宮・内宮との激突

この「古代から続く度会氏にとっての聖地だったのに、後からやってきた内宮(中臣氏系の荒木田氏)の下に置かれた」という歴史的経緯は、やがて中世に大きな火種となって爆発しています。

 

南北朝〜室町時代にかけて、伊勢神宮・外宮の神職・度会家行(わたらいいえゆき)らは『神道五部書』を著し、「豊受大神こそが、天照大神よりも前に存在した宇宙の根源神(国之常立神・天之御中主神)である」とする「伊勢神道(度会神道)」を提唱しました。

 

これは長年、伊勢神宮・外宮は内宮よりも格下と見られてきた外宮側のアイデンティティの主張でした。

 

宝徳元年(1449年)には室町幕府や有力大名(武田氏など)の参拝を巡って内宮と外宮が武力衝突し、死傷者を出すほどの血で血を洗う惨劇まで起きています。内宮と下宮の仲は最悪だったのです。

 

その後、江戸時代前期(初期〜中期)にかけても、外宮(度会氏)側が外宮の神格や格式の引き上げを求めて幕府や朝廷に直訴した結果、幕府の裁定によって敗訴し、外宮側の神職たちが厳罰(処罰・追放・処刑など)に処された事件が起きています。寛文の神領事件(かんぶんのしんりょうじけん)

 

このように、つい最近(約300年前)まで外宮は内宮よりも神聖で格が高いという自認が度会氏の中にあったのは、伊勢神宮ができる前からこの土地に住み、連綿と祭祀を続けてきた歴史があったからなのでしょう。

 

 

最後に、度会氏と伊勢神宮・外宮の出来事の時系列をまとめます

 

  • 第一段階:4世紀初旬の11代垂仁天皇の時代、倭姫を迎えて伊勢神宮・内宮の創建に協力した大若子命が伊勢神宮の神官として任命される。
  • 第二段階:5世紀中旬の21代雄略天皇の時代、丹後の豊受大御神が伊勢神宮・外宮に祀られる。同じ時期に高倉山古墳が築造される。
  • 第三段階: 6世紀〜7世紀、41代持統天皇や藤原不比等らが伊勢を「国家最高の聖地(天皇家の氏神アマテラスの鎮座地)」として再編。伊勢神宮・内宮の神官が荒木田井氏(中臣氏の一派)となる。
  • 第四段階: 43代元明天皇の時代に度会氏の姓を賜る。

 

 

 

 

 

 

まとめ

  • 5世紀中ごろ(21代雄略天皇の時代)に、内宮アマテラスの神託により丹波から食事を司る豊受大御神(とようけのおおみかみ)が迎えられた
  • 度会氏(わたらいし)のルーツは、地元の海人族「磯部氏」が前身であり、天火明命の子孫である
  • 度会氏が伊勢神宮の神官となったのは11代垂仁天皇の時代で、倭姫命を迎えた大若子命が初代神主とされる
  • 豊受大御神を祀る正殿・多賀宮の千木は男神型の「外削ぎ(垂直)」であることから、度会氏の氏神を祀っている可能性がある
  • 外宮の裏山にある5世紀後半の「高倉山古墳」は、外宮成立に対抗して地主豪族・度会氏が自らの聖地に築いた墓と推測される
  • 中世には『神道五部書』で外宮優位(伊勢神道)を唱えて武力衝突(1449年)を起こし、江戸時代の寛文年間にも直訴を行って幕府から厳罰(処罰・追放)を受けた

なぜ銅鐸は巨大化して消えたのか?銅鐸は同盟の証だった?

この記事では弥生時代に突如現れ、巨大化し、消えた銅鐸についてまとめます。

 

 

銅鐸とは

銅鐸とは、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器です。

 

紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用されていました。

 

学校の歴史の授業では「豊作を祈る祭り道具」と習いますが、その用途は謎に包まれています。

米作りがその後もずっと続いているにもかかわらず、なぜか銅鐸だけが3世紀の初め頃、突如として姿を消します。 

 

豊作を祈る祭り道具であれば稲作がさらに盛んに行われるにつれて使われ続けるのではないかという疑問が発生してきます。

 

なぜ銅鐸は、鳴らすことすら不可能なほど巨大化した挙句、突如として歴史の表舞台から姿を消したのか。

 

その謎を解き明かすために、兵庫県・淡路島と島根県・出雲から見つかった「同一の鋳型」の存在、『古事記』『日本書紀』が語る大国主神と大物主神の交代劇、三輪山祭祀の成立について考えていきます。

 

銅鐸の鋳型

2015年、兵庫県淡路市の松帆(まつほ)地区で奇跡的な発見がありました。

出土した「松帆銅鐸」を詳細に分析したところ、直線距離で約200km離れた島根県出雲市の「加茂岩倉(かもいわくら)遺跡」や「荒神谷(こうじんだに)遺跡」から出土した銅鐸と、「まったく同じ鋳型(かた)」で作られていたことが判明したのです。

まっぷるウェブより

なぜ同じ鋳型だとわかったかといえば、使用するうちに鋳型に生じた小さな傷が一致しているためです。

 

同一の工房で作られた銅鐸が、海を隔てた別の「国」へとそれぞれ運ばれたことを意味します。

 

さらに、一番遠いところで、静岡県浜松市に至るまで、銅鐸を埋める際の向き(ヒレを真上・真下に向ける横倒しの配置)が共通していました。 

 

 遠く離れた地域で同じ鋳型の青銅器が供給され、埋める方法まで共通しているのは、両地域が「同盟」を結んでおりその証が銅鐸だったのではないかと考えています。

 

 

銅鐸の巨大化

はじめは約10㎝ほどだった銅鐸は、紀元前2世紀後半ごろから徐々に大きく(約50㎝)作られるようになり、紀元後1世紀末〜2世紀には約1mに大型化します。

 初期の銅鐸は高さ30cmほどで、内部に「絶(ぜつ)」という棒を吊り下げて音を鳴らす「聴く銅鐸」でした。 出雲(島根県)の有名な加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡から出土した銅鐸は「聴く銅鐸」に該当します。

 

しかし、紀元1〜2世紀頃になると、銅鐸は一気に大型化します。

 

滋賀県野洲市の大岩山から出土した最極期の銅鐸は、高さ134.7cm、重さ45kgにも達します。もはや、揺らして音を鳴らすことは不可能な大きさです。

 

大陸から輸入される貴重な資源であった「銅」を大量に使って巨大な青銅器の銅鐸を造れるのは、豊かな国であることの象徴だったのでしょう。すなわち、巨大な銅鐸は、敵対・隣接する勢力に自国の富を見せつける役割があったのではないでしょうか。

 

銅鐸の巨大化は、「近畿」と「東海」というふたつの勢力による権力誇示の競争だったのではという説があります。

 

考古学的に、この大型銅鐸の特徴は2つに分けられるからです。

  • 近畿の銅鐸(飾りの耳が大きい)
  • 東海の銅鐸(飾りの耳がない)

近畿・東海の銅鐸の統合

 

近畿・東海の銅鐸は最終的には近畿の銅鐸のデザインで統一されていきます。これが意味するところは近畿の勢力を中心とする近畿・東海同盟の成立を意味しています。

 

この、近畿・東海同盟の現在の天皇に繋がる大和政権とは別の勢力ではないかと考えています。理由は記紀には「銅鐸」に関する記述がないためです。

 

銅鐸のデザインが統一された時期は、2世紀後半〜2世紀末頃(西暦150年〜200年頃)であり、その後、銅鐸が作られなくなる代わりに、前方後円墳が出現するようになります。

 

前方後円墳は記紀において、大和政権の大王が埋葬されていると、明確に記されているのです。 

 

また、滋賀県大岩山などの近畿系銅鐸には、飾りの「耳」を切断されたり、本体を粉々・不可逆的に破壊された痕跡が残っています。脇本遺跡の金属加工場跡からは、破砕された銅鐸の破片が、銅の矢尻(武器)の原料として再利用されていた形跡が発掘されています。大和政権のものであるならば、神聖な銅鐸をわざわざ破壊したり再利用するでしょうか?

 

大和政権とは別の勢力の証であった銅鐸の代わりに、前方後円墳には銅鏡が埋葬されるようになります。

 

出雲で銅鐸が作られなくなった理由

一方、かつて近畿・淡路と共通の銅鐸の鋳型を持っていた出雲(島根県)では、この銅鐸巨大化が始まる前に銅鐸が使用されなくなり、「四隅突出型墳丘墓※」という巨大な墓を造営を始めるようになります。

※四隅突出型墳丘墓:最古は紀元前1世紀頃に作られた陣山(じんやま)墳墓群(広島県三次市)と青木(あおき)遺跡(島根県出雲市)。三次盆地とほぼ同時期に山陰の出雲地域でも独立して、または連動して成立していた。

 

『古事記』の国譲り神話において、地上の国を治めていた大国主が天上の国からきた神に国を譲った神話があるように、青銅器文化の先駆けであった出雲の勢力はやがて小さくなり、巨大銅鐸を作る近畿・東海地方に戦いの舞台が移ったということなのでしょうか。

 

銅鐸が古事記・日本書記に登場しない理由

 

同盟の証である銅鐸が無くなったのは、大和政権を中心とする「国同士の同盟」が必要なくなったからとみています。

 

銅鐸が使われなくなる時期の大和(奈良県)の遺跡が、奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」や「脇本遺跡」です。

 

これらの遺跡からは全国各地の土器が出土しており、国家的な統合が始まったことを物語っています。

伊勢・東海系約 49〜50%、北陸・山陰系約 17%、河内系約 10%、吉備系約 7%、近江系約 5%、関東系約 5%播磨・瀬戸内・その他約 7%

 

大和を中心とする同盟の頂点にいたのは現在の皇室に繋がる10代崇神天皇と考えています。「ハツクニシラススメラミコト」という最初に国を治めた称号を持っているからです。

 

10代崇神天皇の頃には、三輪山の神である大物主(国津神=出雲系)が祟りを起こし伝染病が流行したことが記紀に記されています。

この大物主こそが銅鐸同盟国が信仰する神(太陽神)であり、後に皇室の氏神となった天照大神のモデルであると考えています。

大物主が祟りを起こした記事には、当時の大和政権は、祟りの原因となるようなうしろめたい行為を行った自覚があったとみています。

 

それが出雲・大和・東海に広がる銅鐸文明からの国譲りであり、同盟の証を「銅鐸」から「銅鏡」へと変わったということではないでしょうか。

 

国々が一本化され「大和政権」という新しい同盟が形成されると、銅鐸は不要になるどころか、旧勢力の結託を象徴する危険な存在となります。そのため、政権側は古い同盟のシンボルである銅鐸を徹底的に回収し、意図的に「破壊」して武器や別の青銅器へと改鋳したのです。

 

『古事記』『日本書紀』に銅鐸の記述が一切登場しない理由は、大和王権にとって銅鐸とは「抹消すべき過去の同盟の記憶」だったからです。

 

まとめ

  • 銅鐸とは弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である
  • 淡路島と出雲で同じ鋳型のものが発見され遠方まで共通の作法で埋められていたことから「国同士の同盟の証」であった可能性がある
  • 初期の音を鳴らす小さな「聴く銅鐸」から「近畿」と「東海」の二大勢力が権力を誇示し合う中で1mを超える「見る銅鐸」へ巨大化した
  • 2世紀末にデザインが近畿式へ統一され、3世紀初頭に大和政権に実権が移ると旧勢力の危険なシンボルとして徹底的に回収・破壊され、同盟の証は「銅鏡」へと転換した

 

 

 

三重旅:天照大神は元々男神だった??

この記事では、伊勢神宮で祀られる天皇家の氏神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が女神ではなく男神であった可能性について考察します。

 

 

 

天照大神は元々男神だった??

天照大神は元は男だったという話があります。今回の伊勢の旅で調べるうちに自分もそう思うようになりました。

 

672年壬申の乱に勝利した天武天皇は自身の正当性を主張するため日本史上、初めて天皇を自称しました。

 

天武天皇の皇后、持統天皇は自分の孫である軽皇子、のちの文武天皇に皇位を譲るために、自信が天皇であり続けるために女帝の正当性を示す目的で皇祖神の天照大神を女にしたと考えています。

 

かつて天照大神が男神であったと考える理由は以下です。

  • 伊勢神宮の元宮とされる京都府の籠(この)神社では、祭神として「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」という男神が祀られています。崇神天皇の時代、皇女・豊鍬入姫命に率いられた天照大神が各地を巡った末にこの地に遷り、豊受大神とともに「吉佐宮(よさのみや)」で約4年間ご一緒に祀られたという伝承が残っています。

  •  平安時代の869年に始まった祇園御霊会を起源とする京都の祇園祭では、山鉾の一つである「岩戸山」の御神体として祀られている天照大神の人形になんとアゴヒゲが生えています。
  • 神宮へ奉納する御衣(みころも)は男性用 12世紀の平安時代、大江匡房(まさふさ)は『江家次第』という書物で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束が男性用の衣装であると記しています。
  • 『ホツマツタエ』などのヲシテ文献(古史古伝)では、記紀の記述とは異なり、天照大神は男性(皇子・天子)として描かれています。

このように少なくとも平安時代には天照大神は男神なのではないかという疑問がささやかれていたことがわかります。

 

天照大神が祀られる前の伊勢の男神

伊勢神宮ができる前の伊勢には、天照大神ではない別の男神が祀られていたようです。

 

伊勢神宮に天照大神が祀られるようになるのは、11代垂仁天皇の時代と言われており、4世紀初め頃だと考えています。

 

それまで伊勢の地で祀られていた神は、「伊勢津(イセツヒコ)」という太陽と風を司る男神であったと言われています。

 

伊勢地方の権力編纂

伊勢津(イセツヒコ)とは出雲系で初代神武天皇が派遣された天日別命に敗れて東方へ逃れたとされる人物です。

伊勢津彦の別名が櫛玉彦と呼ばれることから、初代神武天皇が大和で即位する前の、大和王とされる饒速日(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)と同一人物では?という説があります。

伊勢も出雲、大和、尾張という広大な銅鐸同盟の中に含まれていることから、伊勢の王、伊勢津(イセツヒコ)が、出雲族であり饒速日と同一人物もしくは親戚?だったとしてもおかしくなさそうです。

 

 天照大神は三輪山の神だった?

奈良の三輪山には大物主が祀られています。

 

記紀神話にも登場することから力、権威、多くの信者を持った神社であったはずなのに、祭神の大物主は謎の神です。

大物主の情報が少ない理由は、時の流れと共に信仰が薄れていき、存在を忘れ去られてしまった、というよりも時の権力者によって意図的に隠され謎の神となった存在だと考えています。

 

この大物主の正体こそがかつて銅鐸同盟国の中心の大和に君臨していた太陽神、天照だった考えています。  

三輪山に天照が祀られていたという記録があります。  

 

西大寺の叡尊が13世紀後半に記したとされる『三輪大明神縁起』では、三輪の神と伊勢神宮内宮の天照大神は「同体(大日如来の化身)」であると説かれています。(三輪流神道)

 

なぜ伊勢と三輪をピックアップしたのか?といえば政府が禁止しても人々は三輪山にかつて天照大神が祀られていた信仰が忘れられていなかったということではないでしょうか。 

 

12代垂仁天皇の時代に天照大神が鎮座する場所を探して各地を旅した倭姫について記した書物である『倭姫命世記』には、天照大神を2年奉斎していたという”御室峰上宮”は、三輪山の山頂にある日向神社の事だと考えられます。  

 

つまり、かつて三輪山の山頂では天照大神が祀られていたことがおり、そしてさらにその東の太陽が昇る場所である伊勢にも太陽神である天照大神を祀ったということです。

 

 

天照大神が女神とされた理由

三輪山と伊勢の太陽神を天皇家の氏神として変えたのが、天武天応・持統天皇夫妻だったと考えています。

 

伊勢神宮内宮の神官は、天武天皇の時代に中臣氏に近い荒木田氏が任命されるまで、伊勢の地方豪族である磯部氏(石部氏)でした。

 

672年の壬申の乱で前任の天智天皇の子の大友皇子を倒して即位した天武天皇を、当時叛逆者と考える勢力もいたはずです。

 

天武天皇は自身の正当性を示すために、自らを「天皇」と名乗り、「八色の姓」で自分に味方する豪族の地位を明確に高く定めていきました。その政策の一環として歴史書(古事記・日本書紀)の編纂を開始して太陽神の末裔であるという天皇の正当性を記していきました。

 

記紀神話では天皇の先祖である天津神に対して、素戔嗚や大国主の一族を国津神として描いています。これに合わせるように三輪山の山頂で祀られていた太陽神=饒速日(かつての天照の原型)を大物主という国津神として設定し、伊勢で祀られていた共通の太陽神は天津神としたということでしょう。

 

天武天皇の妻の持統天皇は孫の文武天皇に皇位を継承させるために、女帝として長く即位したことは有名です。他の天皇が即位してしまうとその子が次期天皇となり孫の文武天皇は天皇にはなれず、皇族になってしまうからです。

 

そのようないわゆる個人の都合に対して、当然反対勢力もいたでしょう。

 

一説には、「天皇の氏神も女神だったじゃないか!」と女帝としての正当性を主張するために、天照大神を女神としたという話があります。

 

鎌倉時代に至っても「政府が禁止しても消えない信仰」として、三輪山と伊勢神宮の同一視(三輪流神道)が人々の間で根強かったのは、もともと一つの信仰圏であった出雲・大和・伊勢の太陽信仰が、天武・持統朝という中央権力によって「伊勢=天つ神(天照)」「三輪山=国つ神(大物主)」に分けられたからです。

 

政治的な力で神話や歴史書を塗り替えても民衆の心に刻まれた「本当の神の姿」の記憶までは消し去れなかったということなのでしょう。

 

まとめ

  • 伊勢の元宮とされる籠神社で男神(彦火明命)を奉斎していること、祇園祭(岩戸山)の御神体人形にアゴヒゲが存在すること、伊勢神宮への奉納御衣が男性用であること、『ホツマツタエ』等で男性としての記述など天照大神が男神である説が昔から存在している
  •  元々は出雲・大和・伊勢する文化圏であり共通の太陽神(饒速日) が祀られていた可能性がある
  •  大和(三輪山頂)で祀られていた太陽神=大物主=天照が、日の出る東の伊勢へ遷座し、記紀神話に合わせて大物主は国津神とされた可能性がある
  • 持統天皇が孫(文武天皇)へ皇位を繋ぐため、「皇祖神も女神である」として歴史書を改変した可能性がある
  •  政治的に「天つ神(伊勢)」と「国つ神(三輪)」へ分断されたものの、元々の太陽神信仰は失われず、中世の「三輪流神道(伊勢・三輪同体説)」へと受け継がれた

 

      

三重旅:伊勢国(いせのくに)の由来は磯国(いそのくに)だった?

 

この記事では、伊勢の地名の由来となったと考えられる磯部氏(いそべし)についてまとめています。

 

 

伊勢国とは

現在の三重県の伊勢湾岸の地域は、かつて伊勢国(いせのくに)と呼ばれていました。

 

701年(大宝元年)に定められた法律「大宝律令」により、大和政権が全国を統治する単にとして、国・郡・里が法的に定められました。

 

このタイミングで公式に「伊勢国」が定められたのですが、実はそれよりもずっと昔からこの地域は「イセ」と呼ばれていたことがわかっています。

 

『伊勢国風土記』逸文によれば、初代神武天皇の大和への東征の際に派遣された天日別命が、国津神(くにつかみ)の伊勢津彦(イセツヒコ)を追放して伊勢平定を達成し、これを喜んだ神武天皇が神の名「イセツヒコ」から命名したとされています。

 

「伊勢」の語源は「磯」だった?

 

「伊勢」という地名のルーツは、その名の通り海岸線を指す「磯(いそ)」であったという別の説もあります。

 

古い神宮の儀式長などをもとに中世に編纂された神道書である『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』によれば、11代垂仁天皇の時代に倭姫命(やまとひめのみこと)が巡行した際の記録には、「伊勢(いせ)」ではなく「伊蘇(いそ)」と記されています。

磯神社の由緒(磯神社にて撮影)

また、その時に、宮川の流域(現在の三重県伊勢市磯町付近)に仮宮を造り、天照大神をお祀りした場所を「磯宮(伊蘇宮)」と名付けたと記されており、現在もその跡地に「磯神社(いそじんじゃ)」が鎮座しています。

 

磯(いそ)と呼ばれていたのは、この地を最初期に支配していたのは、古代の伊勢・志摩半島の海人族の磯部氏=石部氏(いそべし)と関係しているようです。

志摩半島には現在も志摩市磯部町があり、磯部氏の本拠地と考えられます。志摩半島は古く縄文?弥生時代から伊勢湾で漁撈(ぎょろう)をしていたことがわかっており、またこの海の幸を伊勢神宮の神にささげていたことも歴史書に記されています。

 

『万葉集』巻6・1033(柿本人麻呂の歌など)

 「御食向ふ 志摩の海人ならし 真木袋 持ちて採る見れば…」

(みけむかう しまのあまならし まきふくろ もちてとるみれば…) 

 

 「御食向ふ」は「志摩」にかかる枕詞(まくらことば)です。つまり、「志摩国は朝廷に食料(御食)を献上する国」とする一般常識が浸透していたということになります。

 

『皇大神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』(804年)によれば、伊勢神宮に奉納する「御食(神様の食事)」や「御塩(御塩浜で作る塩)」を、志摩の磯部氏や海人たちが塩づくりやアワビ採取の神事・役目を世襲して担っていたことが記されています。

 

現在は天皇の始祖神である天照大神を祀っている伊勢神宮もかつては、磯部氏の聖地であった可能性があります。

 

伊勢神宮外宮の神官は磯部氏だった

古来から近世(江戸時代末期)に至るまで伊勢神宮外宮の神官は磯部氏が担っています。

『続日本紀』和銅4年(711年)3月16日条によると、伊勢国の「磯部祖父(いそべのおおじ)」や「石部(いしべ/いそべ)」らに、神宮が鎮座する土地の地名(三重県伊勢市度会郡)にちなんだ「渡相(わたりあい/のちの度会)神主」の姓(かばね)が下賜された記事があります。

 

つまり、少なくとも当時はすでに外宮の神官は磯部氏だったことがわかります。

 

上空から見た高倉山 Wikipediaより

伊勢神宮の外宮の背後には、標高117mの高倉山(たかくらやま)がそびえています。山頂付近には、6世紀中ごろに築造された円墳の高倉山古墳があります。

 

この古墳は、大和政権による中央集権化以前にこの地を支配していた磯部氏のものであり、祖先の聖地を8世紀まで脈々と守り続けていたのが磯部氏→渡会氏であったとおもわれます。

 

伊勢神宮は磯氏の聖地だった?

かつては、伊勢神宮の外宮だけでなく、内宮の神官も磯氏が担っていたようです。

 

歴史学者である田中卓氏や鳥越憲三郎氏らの研究では、天武天皇の時代(670年代〜680年代)に、中央の政策によって内宮の最高位(禰宜職)が中臣氏に近い「荒木田氏」へと変更されたことが指摘されています。

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672年壬申の乱で勝利した天武天皇は、自身の正統性を認めさせるために日本史上はじめて「天皇」を名乗ったと言われています。

 

また『古事記』『日本書紀』の編纂を命じて天皇の氏神は「天照大神」を国家の最高神として指定しました。

 

そうなると、11代垂仁天皇の時代に大和から伊勢に移された太陽神である天照(あまてらす)を祀っているのが、伊勢地方の有力豪族である磯部氏であることは不都合になってきたというわけです。

 

そこで中央政府の息のかかった神官である中臣氏系の「荒木田氏」に内宮の祭祀権を与えて、磯部氏は外宮へと追いやられていったのです。

 

そうなると、約30年後(711年)の度会氏(わたらいし)の姓を与えた記事は、不満を抱く磯部氏の反対をおさめるために行った政策という見方ができます。

 

中央政府に聖地を乗っ取られたともいえる磯部氏は沈黙したわけではありませんでした。むしろ、磯部氏は志摩にある伊勢神宮の別宮「伊雑宮(いざわのみや)」こそが本当の内宮であるというロジックを構築して主張し続けています。

 

鎌倉時代、外宮の神官となった度会氏(磯部氏の末裔)は、中央の神祇伯(中臣氏系)に対抗するため、独自の高度な神学「度会神道(伊勢神道)」を打ち立てました。

 

詳しくは「伊雑宮は天照大神が最初に鎮座された地(伊勢神宮の根源)」であり、現在の内宮・外宮はあとからできたものに過ぎない」という主張です。

 

江戸時代初期には、伊雑宮の神職(=磯部氏一族)らが幕府に対して「伊雑宮を本宮とし、内宮・外宮と同等の社格・御朱印領(領地)を認めてほしい」を直訴しますが、伊雑宮の神職たちを極刑(磔・打ち首など)や流罪となってしまいます。

 

伊勢神宮で磯部氏が祀っていた神は?

伊勢神宮が天武天皇の時代(670年代〜680年代)に中央政府の管轄となる以前は、内宮・外宮ともに磯部氏にとっての聖地でした。

 

内宮には11代垂仁天皇の時代に天照大神が祀られ、外宮には21代雄略天皇の時代に豊受大神が祀られたと記紀には記されています。

 

天照大神や豊受大神が祀られる以前から磯部氏はこの地に住んでいたわけで当時は別の神を祀っていたと思われます。

 

磯部氏が祀っていた神の名は「天日別命(あめのひわけのみこと)や伊佐波登美神(いさはとみのかみ)」です。

 

弘仁6年 / 815年に編纂された『新撰姓氏録』 によれば、伊勢朝臣(いせのあそん)」 は「天日別命の後なり」 とあります。天日別命といえば、初代神武天皇の命令により、伊勢地方を治めていた伊勢津彦(イセツヒコ)から伊勢の国を譲り受けた人物です。

『倭姫命世記』によると、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神の御杖代(みつえしろ)として志摩国を巡幸された際、この地で出迎えた人物が伊佐波登美神(いさはとみのかみ)です。志摩国一宮の伊雑宮の系図によれば、磯部氏の祖先は伊佐波登美神(いさはとみのかみ)としています。 時系列としては伊佐波登美神(いさはとみのかみ)が天日別命の子孫ということになるのでしょうか。

そして、磯部氏と名乗っていた21代雄略天皇の時代に豊受大神が丹後半島の籠神社(このじんじゃ)からやってきます。『古事記』応神天皇の時代の条に「此の御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜ひき」とあるので、磯部を名乗ったのは15代応神天皇の頃でしょうか。

 

また別伝もあり、物部氏の歴史書である『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、「神武天皇の御世に、天降る天牟久怒命(あめのむくぬのみこと=天村雲命)の孫である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を勅して伊勢国造(および伊賀国造)に定めた」とあります。

 

また、『先代旧事本紀』「天神本紀」には、天牟羅雲命(あめのむらのもみこと」が「度会神主らの祖」であると記されています。

個人的に饒速日を始祖とする『先代旧事本紀』の系図は出雲系だと考えているので緑で示しました。『先代旧事本紀』は、伊勢国造から磯部氏・度会氏は連綿と続く饒速日の末裔であると主張しているのです。


そうなると、出雲から派遣された伝承をもつ伊勢津彦と天日鷲命は同一人物なのか、もしくは初めて伊勢国造に任命された天日別命は同一人物である可能性があります。

なお、伊勢・志摩沿岸部から南紀方面にかけて点在する巨石や、『伊勢国風土記』で伊勢津彦と戦った神を祀る敢國神社(あえくにじんじゃ)が巨石を崇拝していることから伊勢津彦の前には巨石を祀る南方海洋民(Y染色体ハプログループC系統)がいたと考えています。

まとめ

  • 『伊勢国風土記』逸文では、神武天皇の命を受けた天日別命(あめのひわけのみこと)が、国津神の伊勢津彦(イセツヒコ)を平定したことに由来するとされる
  • 『倭姫命世記』や「磯神社」の由緒、志摩市磯部町の地名から、古くからこの沿岸部(磯)を本拠地としていた海人族「磯部氏(いそべし=石部氏)」の名に由来するという説もある
  • 磯部氏は志摩の海産物や塩(御塩)を採取・製塩し、朝廷や伊勢神宮に神の食事(御食)として奉納する重要な役割を担っていた
  • 『続日本紀』和銅4年(711年)条には、磯部氏(石部)が「度会(わたらい)神主」の姓(かばね)を下賜されたとあり、古くから伊勢神宮外宮の祭祀を世襲していた
  • 伊勢神宮もとは内宮も磯部氏の聖地だったが、天武朝(7世紀後半)に「天皇」号の確立や「天照大神」の国家最高神化に伴い、中央政府と結びついた中臣系の荒木田氏(あらきだし)に主導権が移された
  • 鎌倉時代、度会氏は志摩の伊雑宮(いざわのみや)こそが天照大神の最初の鎮座地(本宮)であり、現在の内宮・外宮は後からできたものだという神学を立ち上げた
  • 天照大神や豊受大神以前から、磯部氏は土地の開拓神・祖神である「天日別命」や「伊佐波登美神(いざわとみのかみ)」を祀っていた
  • 『先代旧事本紀』の「国造本紀」「天神本紀」では、度会神主の祖を天牟羅雲命(天村雲命)や天日鷲命とし、饒速日命(物部氏系)の系譜に組み込んでいる

三重旅: 都美恵神社(つみえじんじゃ)を参拝

 

 

この記事では、伊勢津彦を追い求めて三重県に鎮座する式内社の都美恵神社(つみえじんじゃ)を訪問した記録をまとめます。

 

 

都美恵神社の鳥居

 

 

 

都美恵神社(つみえじんじゃ)とは?

都美恵神社の拝殿

都美恵神社(つみえじんじゃ)は、『延喜式』神名帳に記載される「穴石神社」の論社です。

穴石神社の棟札は市指定文化財として残る

『倭姫命世記』等の古伝では、第11代垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大神を祀る場所を探して各地を巡幸した際に2年間滞在した「敢都美恵宮」に比定されています。

 

 

主祭神

栲幡千々比売命(たくはたちぢひめのみこと)

 

経津主命(ふつぬしのみこと)

布都御魂命(ふつのみたまのみこと)

応神天皇、須佐之男命、伊勢津彦命など33柱

都美恵神社の位置 都美恵神社にて撮影

三重県伊賀市柘植町(つげまち)2280に鎮座しています。

都美恵神社の由緒

都美恵神社(つみえじんじゃ)の社伝によると、霊山の中腹にある穴師谷に「穴石大明神」として祀られたのが始まりとされ、西暦2〜3世紀以前の創建とも伝えられます。

旧鎮座地

寛永21年(1644年)の大洪水で社地が流出し、正保3年(1646年)に現在の地へ移転しました。  

旧大和街道見取絵図には石神大明神とある

元の名は穴石(穴師)神社又は、石神明神とも呼ばれてました。

 

明治時代に神仏分離のために大明神を改め、『倭姫命世記』にみられる元伊勢の古名「敢都美恵宮」から、現在の「都美恵神社」へ改称したようです。(※「つみえ」は柘植(つげ)の古名といわれている)

 

 

都美恵神社(つみえじんじゃ)を参拝

伊勢神宮外宮から車で移動しました。下道で1時間半くらいかかります。

都美恵神社の拝殿前より撮影

平地の中の小高い山の上に鎮座していました。眺めがいいです。

神宮遥拝所 

境内には、伊勢神宮の方角に向かって拝むことができる「神宮遥拝所」が配置されていました。

Googleマップで確認してみると若干?ずれてるような…?

遥拝所の鳥居の奥に見える霊山

遥拝所の鳥居の奥から旧鎮座地である霊山がの方みえます。伊勢神宮を拝みながら神聖な山も一緒に拝むことができるということでしょうか。

 

 

 

 

都美恵神社(つみえじんじゃ)に伝わる出雲の国譲り

都美恵神社の境内より撮影

社伝によればこの地に出雲族がやって来たと伝わっています。

 

祭神は出雲族が多く祀られており、特に気になるのは「伊勢津彦(いせつひこ)」です。

 

『伊勢国風土記』逸文に以下の記載があります。

伊勢と云ふは、伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢都彦命、又の名は櫛玉命なり。 此(こ)の神、昔、石もて城(き)を造りて此に坐しき。 ここに、阿倍志彦(あへしひこ)の神、来て奪ひけれど、勝たずして還り却(さ)りき。 因りて名と為す。

 

伊勢津彦(いせつひこ)といえば、伊勢の地をひらいた地主神として知られますが、もともとは、ここ伊賀の山中(霊山中腹の穴師谷)を拠点としていたということになります。

伊勢津彦と戦った阿倍志彦(あへしひこ)の神は、『延喜式神名帳』に記載されている伊賀国の一ノ宮、敢国神社(あえくにじんじゃ)(三重県伊賀市)に祀られている「敢国神(あへくにのかみ)」の事であると言われています。

敢国神社(あえくにじんじゃ)ではかつて、黒岩と呼ばれる大岩を祀っていたと言われておりこれが本当であれば、巨石を祀る南方の海洋民がここに住んでいたと考えています。

山陰の日本海側の出雲から琵琶湖を経由して野洲川(やすがわ)を通り、伊賀の霊山に至った伊勢津彦たちは、先住民であった南方の海洋民族の末裔である阿倍志彦(あへしひこ)の神と争ったという事なのでしょうか。

都美恵神社(つみえじんじゃ)や敢国神社(あえくにじんじゃ)の近くからは「銅鐸(どうたく)」が出土しています。銅鐸は出雲・近畿との同盟関係を示す象徴であると考えており今後考察していきます。

 

※三重県伊賀市柏尾湯舟出土で出土した袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)は、 弥生時代(後期)・1~3世紀 青銅製 総高106.7cm 鐸身73.9cm 裾径35.2×30.3cm 重量15292g 大きな飾り耳があるのは畿内の銅鐸の特徴。

※三重県伊賀市千歳(ちとせ)で出土した銅鐸飾耳(どうたくかざりみみ)は、弥生時代後期から古墳時代出現期前後のものとされる銅鐸の破片。

 

元々この地には、出雲族の流れをくむとされる伊勢津彦命などの先住勢力が根を下ろし、霊山を拠点とていたことがわかりました。しかし、大和を治めていた出雲族である饒速日(にぎはやひ)が、神武天皇もしくは崇神天皇に国譲りをすると、徐々に大和政権の勢力がこの地にも拡大してきたのではないでしょうか。

 

そのうちのひとつで、垂仁天皇の時代の倭姫の伝承であり、伊勢神宮への通路にあたる交通の要衝・柘植(つみえ)にも視察が入っているのではないかと思われます。

 

はじめは出雲系の神々を祀っていたところから、徐々に朝廷の神々(栲幡千々比売命や経津主命など)を勧請・合祀していったのではないでしょうか。

 

 

 

まとめ

  • 都美恵神社(つみえじんじゃ)は、三重県伊賀市柘植町に鎮座する、『延喜式』神名帳の「穴石神社」の論社である
  • 元は霊山の中腹(穴師谷)に「穴石大明神」として祀られ、垂仁天皇期の倭姫命の巡幸地「敢都美恵宮」の比定地とされる大洪水で現在地へ移転し、明治時代に「都美恵神社」へ改称した
  • 『伊勢国風土記』逸文等より、伊勢の地を開いた神・伊勢津彦は、もともと伊賀の霊山中腹を拠点にしていたとされる
  •  出雲から日本海側・琵琶湖・野洲川を経て伊賀(霊山)に至るルートが想定され、近隣からの銅鐸出土が出雲や畿内との同盟関係を示す
  • もともと出雲系の神々(伊勢津彦など)が根を下ろしていたが、大和政権の拡大や倭姫命の巡幸としての視察に伴い、徐々に朝廷側の神々が勧請・合祀されていったと推測される

 

三重旅:伊勢津彦とは?

この記事では、古代における三重県伊勢の統治者であった伊勢津彦についてまとめていきます。

 

 

伊勢津彦とは?

伊勢津彦(いせつひこ)とは、三重県の「伊勢」の地名の由来となった地方神です。

風の神、太陽の神、製鉄の神として信仰されたといわれている神です。

『伊勢国風土記』によれば、伊勢の地に住んでいた伊勢津の元に神武天皇の命令を受けた使者(天日別命アメノヒワケノミコト)がやってきて国を譲るよう求められ、一旦これを拒みますが、大風を起こしながら東に(一説には信濃の国)へと去っていったとされています。

 

伊勢津彦が去ったあと彼の名前を取ってこの地を伊勢と呼んだといいます。

 

 

 

伊勢津彦は出雲族か?

伊勢津彦(いせつひこ)は、書物によって異なる名前があります。

  • 『伊勢風土記』:出雲建子命、伊勢津彦神、櫛玉命  
  • 『播磨の風土記』:伊勢都比古命
  • 『住吉大社神代記』:伊勢川叱古命

伊勢と云うは、伊賀の安志の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。『伊勢国風土記』

 

そもそも伊勢津彦という名前は、吉備津彦、磯城津彦、などのよう「地名・ツ・ヒコ」であることから、律令制以前の地方豪族の首長の神格化であるように思います。

 

出雲という名前や、神武天皇の前の大和の統治者である饒速日(にぎはやひ)と同じ櫛玉命という名前も持っている点は気になります。

 

『伊勢国風土記』には出雲の子であると記載されているので、素戔嗚や大国主、饒速日と同じ出雲族であるとわかります。

 

奈良県の広瀬大社の社伝では、相殿に祀られている「櫛玉命」は饒速日命のことであると伝えています。

 

『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、饒速日命が天降る際、その防衛(護衛)として随伴した「32人の防衛(ふせぎまもり)」の一柱として「天櫛玉命(あめのくしたまのみこと)」が登場します。

 

つまり、伊勢津彦=櫛玉命は、饒速日と同一もしくは饒速日に従ってやってきた出雲族と解釈できそうです。

考古学的にも出雲(現在の島根)から大阪、奈良、三重、愛知までは銅鐸祭祀を行う共通の文化圏であったことがわかっており、これに属する伊勢もまた銅鐸・出雲文化圏なのだと考えられます。

 

 

  伊勢津彦と巨石

 

『伊勢国風土記』によると伊勢津命は伊賀国穴石神社(現三重県阿山郡)に石をもって城(き)を造っていたが、阿倍志彦神(あへしひこのかみ)(=『延喜式神名帳』より伊賀国阿倍郡の敢国神社の祭神の敢国神)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、石城(いしき、いわき)の音が訛って「伊勢」という名が生まれたという別伝も記されています。

 

これが示すのは、伊勢津彦は他国が攻めても滅ぼさないような、高度な土木・建築技術によって石の城をきづいていたということなのでしょうか。

 

伊勢津彦が石で城を作った場所と考えられるのが、延喜式内社である都美恵(つみえ)神社です。

都美恵(つみえ)神社はもともと「穴石(あないし)神社」や「石上(いそのかみ)明神」と呼ばれており、1644年の洪水で流される前は山の中腹にある「穴師谷(あしんだに)」に祀られていました。

 かつての鎮座地は、古代の製鉄集団(穴師)の拠点であったと考えられており、元々の山岳信仰の時代には、背後の霊山やその谷あいに磐座のような信仰の場が存在していた可能性が指摘されています。現在は洪水や地滑りによって確認できないのが残念ですが。。

 

伊勢津彦を攻めた側の阿倍志彦神(あへしひこのかみ)を祀る伊賀国一宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)もまた巨石信仰があった場所です。現在は天孫族の大彦命を祀っていますが、かつては国津神を祀っていたこと、黒岩と呼ばれる大岩を祀っていたことから、巨石を祀る海洋民の末裔が住んでいたと考えられます。

 

それを示すように三重県の伊賀地方や伊勢地方には巨石が多く残されています。

 

 

  • 應感神社(おうかんじんじゃ)

  • 神明神社

  • 丹倉神社

  • 花の窟

  • ゴトビキ岩

過去の記事では、巨石は旧石器時代に南方からやってきた海洋民の象徴であるとまとめました。

伊勢地域に旧石器時代の遺跡は見つかっているのでしょうか?

内垣外遺跡(多気町、約3万年前の姶良丹沢火山灰層から出土)や、出張遺跡(大台町)など、中勢・南勢を流れる宮川流域の河岸段丘などで旧石器時代の石器製作跡が発見されています。

南方から日本列島到達ルート

南方から千島海流に乗ってやってきた南方からの海流民がここに辿り着いて伊勢湾に入り、鈴鹿川を遡って伊賀地方にも集落を作ったということでしょうか。

 

伊勢津彦は製鉄などの技術を持っていた集団で出雲族、阿倍志彦神(あへしひこのかみ)は巨石信仰を持っていた南方からの海洋民族の末裔で、ルーツの異なる二つの集団の戦いが記録されているのではないでしょうか。

 

伊勢津彦は風の神?

 

伊勢国風土記の神話の中で伊勢津彦が国を譲り、東へ去る際に大風を巻き起こしたとされています。

 

古代においては、伊勢を示す言葉として、「神風(かむかぜ)の伊勢」という枕詞が使われているのは、風が強い地域としての認識があったということでしょう。

 

神武天皇も、大和への東征の際に国見丘で、伊勢の神風を讃える歌を歌っています。

神風(かむかぜ)の 伊勢(いせ)の海(うみ)の 大石(おひし)に い這(は)ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這(は)ひ廻(もとほ)り 撃(う)ちてし止(や)まむ  意味・解釈 現代語訳: 「神風が吹く伊勢の海の大きな岩に、ぐるぐると這い回っている『しただみ(小さな巻き貝)』のように、我らも敵のまわりをぐるりと取り囲み、討ち果たさずにはおくものか(必ずや全滅させてやろう)」『日本書記)』

 

倭姫命が、天照大神から神託を受けたときも、神風の言葉が見られるます。

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

「神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国、傍国の可怜(うま)し国なり、この国に居らむと欲(おも)ふ。」『日本書記』

 

 

伊勢は地形的・気象的に年間を通じて強い風が吹きやすい地域です。

冬は、日本海側から吹き込む強い季節風が、鈴鹿山脈や紀伊山脈から伊勢平野を通り伊勢湾へと吹き抜け、夏には 太平洋からの風が湾内や平野部へ流れ込みます。

 

伊勢の風の神はやがて、鎌倉時代の元寇において「神風」が吹き敵船を退けたことで、伊勢の風神への信仰が強まり、伊勢神宮の内宮・外宮に「風日祈宮(かぜのみのみや)」として級長津彦・級長戸辺命と名前を変えて鎮座しています。

 

伊勢津彦と信濃の関係

風にのった伊勢津彦は東方へ、一説には信濃(長野県)のへ移動したと言われています。

 

長野県には伊勢津彦を祀る風間神社や風を司る鏡が祀られています。

 

  • 風間神社(長野県長野市):祭神は「伊勢津彦命」
  •  諏訪大社(長野県):かつて風を祀る最高職「風祝(かぜほうり)」が設置されていた。

 

記紀神話に登場する風の神は級長津彦(シナツヒコ)と呼ばれます。この「シナ(級長)」と「信濃(シナノ)」は同源である可能性があります。

 

さらに、伊勢津彦去った後に伊勢には、長白羽神(天孫族)を祖神とする「麻績氏(おみうじ)」が勢力を伸ばします。麻績氏は神宮の衣を織る重要技術集団でしたが、7世紀の「壬申の乱」などの政変(675年・麻績王の流刑事件)を経て、信濃へと移動していきました。

 

伊勢を追われた麻積氏は、先住の伊勢津彦の逃走経路を真似たのか、あるいは麻積氏の諏訪への逃走が伊勢津彦の神話と混ざり、713年編纂の風土記に取り入れられたのか、謎は深まります。

 

伊勢津彦は武蔵国造の先祖か?

東へ逃れた伊勢津彦の勢力が関東にまで移動したという説もあります。

 

近代の系図研究者・宝賀寿男氏の『古代氏族系譜集成』や『埼玉叢書』所収の「角井家系」によると、伊勢津彦(出雲建子命)は天夷鳥命(出雲国造の祖)の子であり、武蔵国造家(兄多毛比命など)の遠祖として名が登場します。

青線の郡の式内社で出雲族を祭神として祀っている 

兄多毛比命は武蔵国一宮の氷川神社の伝承に登場するほか、武蔵国の式内社には出雲系が多いことと、伊勢津彦が関係しているのかもしれません。

 

 

まとめ

  •  伊勢津彦は、『伊勢国風土記』などに出雲系の子として登場し、天孫族に国を譲って東方へと去ったとされる神である
  •  伊賀や信濃などの神社にその名が残されており、鍛冶技術を持った古代の氏族たちの移動やネットワークと深く結びついている
  •  神話に描かれる「神風」や記紀神話の風の神(級長津彦)との重なりから、自然崇拝としての風の神格化された存在である