この記事では、古代豪族の「和邇氏(わにうじ)」について考察します。
和邇氏(わにうじ)のルーツは皇族?

『古事記』や『日本書紀』といった記紀の系譜によると、和邇氏は第5代孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とする「皇別氏族」とされています。

ヤマト王権の皇族から分かれた氏族であれば、太陽神であるアマテラスオオミカミを祖神として崇めるのが自然です。しかし、和邇氏(わにうじ)は、海生生物の「ワニ」を自らのトーテム(一族の象徴となる野生動物)としている点が異なります。
龍蛇・鰐信仰を持っていた海人族の阿曇族と類似することから、本来は阿曇連と同族ではないかという説もあります。
和邇氏(わにうじ)は、太陽と農耕を敬うヤマト王権に対し、別系統の「海の信仰」を頑なに持ち続けた一族であることがわかります。

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個人的には、系図で天火明命の末裔とするのは、縄文由来の海の民の正統な血筋であることを主張したかったためと考えています。
和邇氏(わにうじ)の勢力地
海の民であった和邇氏(わにうじ)は日本海沿岸から琵琶湖周辺の地域を拠点に勢力を伸ばしていたと考えています。

10代崇神天皇の異母弟として彦坐王(ひこいますのみこ)がいます。

近江、丹波、美濃には彦坐王(ひこいますのみこ)によって開拓されたという伝承や祭神とする神社が多くあることから、近江一帯を勢力として事が推測されます。

彦坐王(ひこいますのみこ)の母は和邇氏(わにうじ)の娘であることから、彼はヤマト政府と邇氏(わにうじ)の両家の血を引く人物としてこの広い地域を治めていたことがわかります。

近江周辺を支配していた和邇氏(わにうじ)は、やがて、大和(現在の奈良県)へ進出していきます。
彦坐王の子が丹後半島を開拓した?
10代崇神天皇の代に起こった「武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱」の際には、大和で挙兵した事が記されています。

『古事記』『日本書紀』によれば、8代孝元天皇の皇子の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が10代崇神天皇の時代に反乱を起こしたとして、和邇氏(わにうじ)の彦国葺命(ひこくにふくのみこと)が、鎮圧しました。

反乱に敗れた武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)は、京都府相楽郡精華町祝園にある「祝園神社(ほうそのじんじゃ)」に祭神として祀られています。

彦国葺命(ひこくにふくのみこと)は、和珥武鐰坂(わにのたけすきのさか)(現在の奈良県天理市和爾町付近)に精兵を率いて、北の木津川方面へ進軍したとあるので、このころには既に和邇氏(わにうじ)は大和に拠点を持っていたことがわかります。

和邇氏(わにうじ)が勢力を構えていた奈良盆地の北側の大和国添上郡

崇神天皇の時代(3世紀後半と推定)から100年ほどたつと大和国添上郡に古墳が築造されはじめます。特に東大寺山古墳からは、後漢の年号である「中平※」が刻まれている鉄剣が出土しています。
※中平(ちゅうへい):後漢の第12代皇帝・霊帝の治世の元号で、西暦184年から189年にかけて使用された
和邇氏(わにうじ)の本拠地の古墳から、大陸由来とみられる貴重な鉄刀などが出土していることも、海洋民としての大陸とのネットワークの強さを物語っていると言えますね。
大和政権と和邇氏(わにうじ)の関係
和邇氏(わにうじ)の特徴は、大和政権との婚姻関係の強力さです。のちに大化の改新を経て台頭する藤原氏を除けば、古代において最大数の皇后・后妃を大王(天皇)家に輩出しているのがこの和邇氏(わにうじ)です。

なぜ和邇氏(わにうじ)がこれほど強い力を持ち続けたのか、その理由について考察していきます。
初期のヤマト政権は、奈良盆地を基盤とする農耕主体の勢力でした。しかし、大陸からの新しい技術、文化を導入するためには、日本海や瀬戸内海へと繋がる「ルート」と「操船技術」が不可欠です。

そこでヤマト政権が目を付けたのは、(宇治川→琵琶湖→若狭湾→日本海)へと抜ける北回りのルートでした。

国土交通省 日本の川より
奈良盆地から一歩外へ出て、日本海からの富(鉄など)を安定して手に入れたいヤマト政権(山側の農耕民)にとって、北側に立ちはだかる琵琶湖ルートを安全に通過することは最優先事項でした。
しかし、琵琶湖には縄文時代※以前から、水上を支配する和邇氏のネットワークが根付いており、力づくで奪おうとすれば、大損害を被るか、最悪の場合ルートを封鎖される可能性すらあります。
※福井県の若狭湾周辺や琵琶湖周辺には、縄文時代・弥生時代の巨大な貝塚や遺跡が数多く存在しており、太古の昔から丸木舟などを巧みに操り、日本海と琵琶湖を行き来していた高度な海洋民(海人族)がいたことが証明されている。
そこで、ヤマト政権は、「和邇氏の娘を大王の妃(后)として迎え、家族・親族関係になる」ことで、その強大な海の力(航海術、水軍力、交易利権)を味方につけたのではないでしょうか。


石ノ森章太郎『古事記』より
例えば、記紀神話(山幸彦と海幸彦の物語など)でも、天孫(天皇家の祖先)が海の神の娘(トヨタマヒメ)と結婚することで、海の霊力を獲得するエピソードが描かれています。
やがて、ヤマト政権と和邇氏(わにうじ)の婚姻関係は一時的な同盟ではなく、世代を超えた「慣例」となっていきます。
大王家にとっては「和邇氏の血を引く王子・王女」であるからこそ、海民(和邇氏)のネットワークをスムーズに動かす正統性が得られ、和邇氏側にとっても、自分たちの娘が大王の后となり、次の大王の母(外戚)になることは、近江や日本海側の自治権や交易利権が保障されるのでWin-Winだったわけですね。
まとめ
- 皇族の系譜でありながら、「ワニ」をトーテムとする独自の信仰を保ち続けた
- 藤原氏以前では最多の后妃を送り込みながら、直系からは一人も大王を出さなかった
- 日本海から琵琶湖へと広がる海洋民のネットワークを背景に、ヤマト王権と対等な一大勢力を築いていた可能性がある
- 和邇氏は、婚姻を通じて外交的に共存する道を選んだ