古代史好きなサラリーマンのブログ

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縄文人はいつ日本列島に来たのか?

この記事では、日本に残る約10万年前の旧石器時代の遺跡の謎と縄文人が日本列島にやって来た時代や方法について考えます。

 

 

日本に残る旧石器時代の遺跡の謎

一般的に、日本列島に人類が到達したのは約4万年前と言われてきました。

しかし、岩手県の金取(かねとり)遺跡や島根県の砂原(すなばら)遺跡からは、それを遥かに遡る約10万年前の地層から石器が見つかっています。

 

アフリカ単一起源説によれば、新人類・ホモサピエンスがアフリカを出てユーラシア大陸に広がったのは今から約5-6万年前とされており、この定説に従えば、これらの遺跡は新人のものではないということになります。 それではどの旧人、原人のものなのでしょうか。

 

旧人や原人が日本列島にやって来たのか考えていみます。

 

遺跡は新人のものなのか?

日本列島は島国なので海を渡る必要があります。

後期旧石器時代における日本と朝鮮半島 (中川 和哉、参考)

現在から最も直近の氷河期(約1万年前に終了)に大陸と地続きだったのは北海道と樺太のみで、対馬海峡は少なくとも約15万年前までさかのぼらないと陸続きになっていないからです。

 

樺太北海道ルートは衣服が無く寒さに弱い旧人・原人では生き残れません。

 

そうなると、日本列島にやってきた集団は海を渡ったか、15万年前より以前に大陸と繋がった対馬海峡をわたったと思われます。

東アジアで発見された旧人類として、北京原人とデニソワ人がいます。北京原人の遺伝子は現在の日本列島人に引き継がれていないため、日本列島に来た可能性は低いです。

 

デニソワ人はごく僅かに現代日本列島人に引き継がれているため、可能性としてはあります。しかし、現代人への継承が少なすぎます。直接の祖先は他にいたはず。

 

そうなると、遺跡で生活していたのは、日本列島人の直接の祖先である新人(ホモ・サピエンス)であった可能性を信じたくなります。

 

それではなぜ、約10万年前という時期に集中して遺跡が残されているのでしょうか。

 

地球温暖化と日本列島への進出

日本列島へやって来た理由は、地球の気候変動にあったと考えられます。

 

地球は約10万年周期で氷河期と温暖期を繰り返しており、今から約10万年前は、最終氷河期が始まる前の非常に温暖な時期でした。

 

温暖化によって海面が上昇し、当時の海岸線は現在とほぼ同じ位置にあったと考えられます。

その証拠に砂原遺跡、入口遺跡は、現在の海岸線近くに集中しています。 やはり、彼らは漁労などで生活する海洋民族であった可能性が高いです。

故郷である熱帯地方が住みにくくなった人々は、より快適で住みやすい環境を求めて北の日本列島へと海を渡ってきたのです。

 

帆船を操り、外洋を自由に移動できたのは、パプアニューギニアなどで活動していた古代海洋民族人のような、高度な技術を持つ新人の一団だったと考えます。

 

縄文人はどうやって日本列島に来たのか?

『モアナと伝説の海』より

星を読み、海を渡る術を持っていた人々は、南からの強い海流である黒潮を味方につけました。

彼らは黒潮に乗り、まずは長崎県の五島列島や平戸市にある入口(いりぐち)遺跡、そして島根県の砂原遺跡の地へと上陸したのではないでしょうか。

長崎の入口遺跡近くには、巨大な石の構造物である「王位石(おえいし)」があり、古代の高度な技術や信仰の跡を今に伝えています。

黒潮の流れに乗り、太平洋側を北上した集団は、現在の宮城・福島沖あたりで、北から流れてくる冷たい親潮とぶつかることになります。ここは「潮目」と呼ばれ、それ以上の北上が難しくなる場所です。

 

そこで彼らは仙台湾に上陸し、飲み水などの生命線を求めて北上川を遡っていきました。

その流域に安住の地を見出して作られたのが、岩手県の金取遺跡だと思われます。

この金取遺跡の近くには、「続石」と呼ばれる不思議な巨石構造物が残されています。

 

長崎の王位石と同じく、これらは航海民である彼らがこの地に留まった証かもしれません

 

東北の縄文人と、南洋のオーストラリア・アボリジニの頭蓋骨形状が似ているという研究結果もあり、10万年前に南からやってきた集団の子孫が縄文人であるならば、矛盾はありません。

まとめ

  • 日本列島には、定説を覆す10万年前の石器が複数の遺跡から見つかっている
  • 10万年前の地球は温暖な気候であり、快適な土地を求めて南の熱帯地域から移動してきた集団がいた
  • 対馬海峡が海で隔てられていたため、海を渡る技術を持たない旧人ではなく、航海術に長けた新人こそが最初の移住者であった
  • 古代海洋民は黒潮や対馬海流を利用し、長崎や島根、そして北上川を遡った岩手の地にまで足跡を残した

 

 

 

 

 

Y染色体ハプログループCの謎と世界に残る巨石建造物

この記事では、日本各地に残ると巨石建造物について考察します。

 

 

ハプログループC1の謎

現代の日本人の遺伝子には、沖縄などで比較的高い割合で見られる「ハプログループC1」という系統が存在します。

ハプログループCの拡散経路

ハプログループC系統の拡散経路は謎と言われています。

 

「ユーラシア大陸の東西南北の”最果て”に極端に離れて分布しているにもかかわらず、大陸の中央部(移動経路)にはほとんど痕跡が残っていないから」です。

 

 

ハプログループC系統は、人類が「出アフリカ」を果たした直後(約6万年前)の中東付近で誕生したと考えられる、非常に古い系統です。

 

通常、これほど古い集団であれば、移動したルート沿いに子孫が残るはずですが、グループCは以下のように地球の辺境にしか存在していません。

  • 極東の島国: 日本(縄文人由来のC1a1)
  • ヨーロッパ: 古代ヨーロッパの狩猟採集民(C1a2)  
  • オセアニア: アボリジニやニューギニア先住民(C1b)
  • 極北・アメリカ大陸: モンゴル、シベリア、ネイティブ・アメリカン(C2)

 

一説には、この血脈のルーツは古代の海洋民族に繋がり、彼らがはるか昔に世界中の海を疾駆していたのではないかという説があります。

 

徒歩による大陸移動では説明が難しいC1の拡散ルートですが、古代海洋民族が帆船を操る高度な航海術を持っていたとすれば、すべてが繋がってくるのです。

 

日本各地に残る巨石建造物の謎

日本各地にある巨石建造物は、縄文時代からの磐座(神の宿る聖域)として残されています。これらが古代海洋民族(ハプログループC1系統)が残したものだとする説があります。

日本各地にある巨石建造物

『イティハーサ』より

何トンもある重さの岩がバランスよく土台となる岩の上に配置されている巨石をみると、古代人は現代人が持たない特別な技術をもっているのではないかと想像したくなります。

しかし、これらの巨石建造物は、何百万年という果てしない時間の中で「風化」や「地殻変動」といった自然の営み(トア現象や球状風化)によって形作られたものと解釈されるのが一般的です。

一方で、巨石建造物の中には、古代の人々が「夏至」や「冬至」の太陽の動きを予測するための天体観測装置として活用していた痕跡が残されています。金山巨石群(岐阜)、笠置山巨石群(岐阜)、唐人駄場(高知県)などです。

 

「夏至」や「冬至」を知ることは、時計もスマホもない時代、季節を知る鍵はとなったためです。

【縄文時代】秋の夜空に「すばる」が輝き始めると、川には鮭が上り、木の実が実る秋の合図です。星々の動きを読むことこそが、彼らが寒い冬を生き残るための準備を始める合図でした。

 

【弥生時代】稲作において、種まき時期のミス・作物の不作は村人の全滅を意味します。村の長は巨石の隙間を通り抜ける朝日の角度で見極めていました。「今日が種まき開始までののXデー」を決定していました。

 

もしこれらの巨石が単なる自然の産物だとしたら、なぜ特定の光の差し込みや天体の運行と、寸分の狂いもなく合致しているのか。 まるで人の手で特定の位置に配置され加工されたかのように見えないでしょうか。

 

 

日本の秋田県にある大湯環状列石とイギリスのストーンヘンジ

巨石を「夏至」や「冬至」の太陽の動きを予測するために本格的に加工された天体観測装置として使用した例として、 秋田県の「大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」があります。(縄文時代後期前半約4,000年前)

『JOMONぐるぐる』より引用

実は海外にも同じものがあります。イギリスのストーンヘンジです。ストーンヘンジもまた、毎年6月21日前後の夏至の日に、ヒールストーンと中心の祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る設計になってお

 一方は東アジアの島国、もう一方はユーラシア大陸の西端に位置するイギリスと、地理的に離れた二つの場所です。

 

二つの遺跡に共通する最も大きな特徴は、石を円形に配置したストーンサークルであり、「夏至の太陽の運行」を精密に測る天体カレンダーとしての機能を持っていた点です。 

 

 文字による記録すら残っていない太古の時代に、これほど高度で共通した天体観測のシステムがどのようにして共有されたのでしょうか。

 

巨石は海洋民族の技術か

『モアナと伝説の海』より 

ユーラシア大陸の東と西でこれほど類似した技術がある理由として、かつて世界中の海を巡っていた古代の海洋民族(ハプログループC1の系譜をもつ人々)が、航海に必要な「星と太陽の知識」とともにこの技術を各地へ伝えたという説があります。

 

スペインメルノカ島の巨石(紀元前2000年頃)など大西洋沿岸や地中海地域にもよく似たテーブル状かつ夏至のタイミングを知るための巨石構造物が残されています。  

アイルランドのニューグレンジ(紀元前3200年頃)は冬至の朝に遺跡に光が差し込むように設計されていますが、遺跡の入り口には縄文時代に特徴的な「うずまき」が施されています。

 幾千キロも離れた地域で同様の天体観測システムが作られたのは、かつて世界を航海し、星や太陽の動きを知り尽くしていた海洋民族の共通した知識の体系があったと考えると、想像が膨らみますね。  

 

まとめ

  •  ハプログループC1の広がりは、古代海洋民族が帆船で世界中を移動していた可能性を示唆している
  • 日本とヨーロッパの巨石建造物には酷似した構造や天体観測システムとしての機能が見られる

多地域進化説の否定:ミトコンドリアイブとは

この記事では、多地域進化説を覆し、現在のアフリカ単一起源説を定説にした「ミトコンドリアイブ」について解説します。

ミケランジェロ作「原罪と楽園追放」、1508-1512年、ヴァチカン、システィナ礼拝堂

 

 

 

ミトコンドリアとは

細胞の中の器官 ⑨がミトコンドリア

ミトコンドリアは、人間の細胞一つひとつの中でエネルギーを作り出す「発電所」のような存在です。

 

この細胞小器官は独自のDNAを持っており、卵子を通じて「母親からその母親へ」と、途切れることなく系譜を受け継いでいくという不思議な性質を持っています。(父親の精子由来のものは受け継がれない)

 

ミトコンドリアのDNAは、核DNAに比べて変異のスピードが速いため、数万年単位の遺伝子変異を辿ることで、人類のルーツをたどることができるのです。

ミトコンドリアイブとは?

1987年、レベッカ・キャン博士らによって『Nature』に発表された論文は、世界中に大きな衝撃を与えました。

 

現代人147人の胎盤試料からミトコンドリアDNAを解析し、「現代の全人類の母系のルーツを辿ると、約14万〜20万年前のアフリカにいた1人の女性に行き着く」という試算を発表し、この人類の共通祖先遺伝子を「ミトコンドリアイブ」と名付けたのです。

当時、人類は世界各地でそれぞれの原人から独立して進化してきたとする説(多地域新仮説)も根強く、この発表は世界中に大きな波紋を呼び、多くの疑問が寄せられました。

 

「たった147人のサンプルで世界中の歴史がわかるのか」

「現代までの数万年の間に一度でもアフリカ系の女性の子孫と交雑したら、ミトコンドリアだけ上書きされてアフリカ起源に見えてしまうのではないか」

「ミトコンドリアイブは新人(ホモサピエンス)ではなく原人ではないのか」

といった指摘です。

 

 

実際、母系のみを辿るミトコンドリアDNA単独の解析には限界が存在します。

 

では、この母系の系譜だけで「アフリカは人類のふるさと」を決めてしまってよいのでしょうか。

 

その疑問に答えるための大きな鍵となったのが、核DNAを含めた全ゲノムの解読でした。

 

多地域進化説の否定:全ゲノム解析もミトコンドリアイブを支持した

ミトコンドリアDNAという母系だけの「小さなタイムカプセル」から始まった議論ですが、現在では両親から受け継ぐ「全ゲノム(核DNA)」の膨大なデータを解読する技術が確立されています。

 

全ゲノムの変異を解析して共通祖先まで歴史を遡ると、遺伝子の分岐年代は約20万〜30万年前という時期を示します。人類の共通祖先(ミトコンドリアイブ)が新人(ホモサピエンス)であったという証拠となりました。

 

もし「大昔(約180万年前)にアフリカを出て世界各地に散らばったジャワ原人などの原人」や「ネアンデルタール人などの旧人」が、そのまま現地で現代人に進化していったのだとすれば、DNAの分岐年代は100万年以上前に遡らなければ整合性がつかないためです。

 

また、古人骨から直接解読されたネアンデルタール人のDNAと比べても、現代人のゲノムの95%以上は旧人と一致していませんでした。

 

つまり、ミトコンドリアDNAだけでなく全ゲノムの解析を通じても、「大昔の原人や旧人ではなく、たしかに約20万〜30万年前のアフリカで新しく生まれた『新人(ホモ・サピエンス)』こそが、私たちの直接の祖先である」という結論が導き出されたのです。(多地域進化説が否定された

では、この「20万〜30万年前」という歴史の目盛りを刻む「遺伝子変異のスピード」は、果してどのような仕組みで計算されているのでしょうか。

 

 

遺伝子変異を用いた年代推定は正しいのか?

 

遺伝子変異は、厳しい環境に適応する過程で起こるとするならば、アフリカにとどまっていた個体よりも、アフリカから出た個体のほうが、はるかに遺伝子変異の頻度は多いのではないかと思われます。

 

なので、一定の期間で遺伝が変異するという現在の年代予測は、間違っているのではないか考え調べてみました。

 

現代の生物学では、環境適応の影響を受けにくい「中立変異」と呼ばれる領域を重点的に解析しているそうです。

 

さらに、年代の分かっている古人骨から直接DNAを解読して計算を校正する手法や、系統ごとに変異率の変動を考慮する統計モデルが取り入れられブラッシュアップされています。

スンダランドで人類が発生した可能性

かつて東南アジアの広大な平原「スンダランド」には、100万年以上前からジャワ原人が暮らしていました。

 

国立科学博物館の溝口優司らの研究によると、日本各地の縄文人頭蓋骨の計測値を統計分析した結果、オーストラリア南東部で発見された旧石器時代の人骨であるキーロー人(Keilor)の頭蓋形態が、アジア大陸のどの集団よりも縄文時代人に最も類似していることが示されました

縄文人やオーストラリアの古代人骨の形状が似ていることから「スンダランドで原人が独自に新人に進化したのでは」という仮説が語られることもあります。 

 

  しかし、ゲノム解析の技術が進化すると、ジャワ原人の遺伝子は現代人に直接受け継がれていないことが明らかになっています。

彼らはサバンナに適応した生活を送っていましたが、気候変動によってスンダランドが密林へと変化する過程で環境に適応できず、絶滅したと考えられています。

 

つまり、 現代の私たち日本人が持つDNAは、ジャワ原人から進化したものではなく、後にアフリカを出てスンダランド(南ルート)を渡ってきた新人(ホモ・サピエンス)の末裔であることになります。

 

愛知県の伊川津貝塚から出土した縄文人(IK002)の解析も、こうした南回りでの定住物語を力強く後押ししてくれますね。

 

 

アメリカ大陸到達の早さの謎

アフリカ単一起源説であることを前提にすると、ユーラシア横断に何万年もかかった人類が、なぜアメリカ大陸を一気に南下(約6千年)できたのか?という疑問があります。

 

アフリカを出てユーラシア大陸を横断するのに数万年という途方もない時間を費やしたホモ・サピエンスですが、アメリカ大陸においては突然加速し、「到達からわずか数千年のうちに南米の南端まで一気に到達した」とされています。

 

これには「移動のスピードがあまりにも早すぎて違和感がある」と感じる方も多いのではないでしょうか。 

 

かつては「アラスカのベーリング海峡が地続きだったころに、氷の切れ目を徒歩で南下した」という説(約1万5,000年前到達説)が主流でした。

しかし、米国ニューメキシコ州ホワイトサンズで約2万2千年前の人類の足跡が確定したことで、到達時期そのものが旧説よりはるかに遡ることが証明されています。

 

 では、なぜこれほど急速に南下できたのでしょうか。現在、その謎を解く最も有力な鍵とされているのが「ケルプ・ハイウェイ(沿岸航海)仮説」です。  

人類は陸上を歩いて進んだのではなく、小舟を操り、東アジアからアラスカ、北米、南米へと続く太平洋沿岸を一気に海沿いに進んだと考えられています。

当時の太平洋沿岸には「ケルプ」と呼ばれる大型昆布の森が連続して広がっており、アワビやウニ、海獣などの豊富な海洋資源に恵まていたためです。

 

個人的には、この仮説はやや飛躍しているように思います。今まで徒歩でベーリング海峡を渡った人々が急に小舟を操り太平洋沿岸を航海できるわけはないからです。

 

ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸にたどり着いた人々は、すでに太平洋を船で渡ってきた人々に出会い、かれらの航海術を学んだと考えています。

その証拠に、南米アマゾンの奥地に暮らす先住民(スルイ族など)のDNAには、他のアメリカ先住民には見られない「オーストラリア先住民やパプアニューギニア人などオストロネシアの人母とに近い遺伝的特徴」が含まれていることがわかっています。(2015年はーばと大学の研究より)

 

つまり、縄文人の祖先とも共通祖先であるスンダランド周辺(南ルート)を通った集団が太平洋を横断してアメリカ大陸まで到達していたのです。

 

まとめ

  • ミトコンドリア・イブの147人という初期サンプルや母系遺伝のみの限界に対し、現代では全ゲノム(核DNA)の解析によってその確からしさが補強された

  • DNAの変異速度のブレを考慮しても、アフリカが最も豊かな遺伝的多様性を持つ「人類の長い本拠地」である

  • スンダランド経由で日本へ到達した縄文人もまたアメリカ大陸を出発したホモサピエンスの末裔である可能性が高い

  • アメリカ大陸を高速で移動したの謎は、舟を使った「ケルプ・ハイウェイ仮説」で証明できるが、航海技術はオストロネシア集団によって提供された可能性がある

縄文人は南からやって来た?

モアナと伝説の海を見て、私たち日本人の祖先である縄文人が、どこから?日本列島にやってて来たのかイメージがわいてきました。この記事では、最新のヒトゲノム解析の論文を元に縄文人の起源について考察してみました。

 

 

 日本列島に人類が住み始めたのはいつ?

 

 日本列島に人類が住み始めたのはいつでしょうか。

 

考古学的な証拠によれば、少なくとも今から約3万8,000年前には、すでに日本列島で後期旧石器時代の石器が使われていたことが分かっています。

 この時代はまだ氷河期の影響が残る厳しい環境(氷河期は1.17万年前に終了)でしたが、当時の人々は未知の土地であった日本列島へと足を踏み入れ、独自の文化を育み始めました。

 

酸性土壌下で人骨が分解されやすい日本列島の特徴から、この時代の人の骨はほとんど見つかっていませんが、石器の跡が確かに人類がいたことを今に伝えています。

 

さて、石器を残した先人たちの後を継ぐように現れたのが、世界最古級の土器文化を持つ縄文人たちでした。 

 

縄文時代の人々は、日本列島のあちこちで豊かな狩猟採集生活を送り、1万年以上というとてつもなく長い期間にわたって平和に暮らしてきました。

 

 

 

縄文人はどのルートで日本列島に到達したのか?

 約6万年前からアフリカを出て東を目指した人類はヒマラヤ山脈を避けて北を通ったのが、南を通ったのかは長らく謎とされていました。

これまで、日本列島にたどり着いた人類のルートについて、細石刃(さいせきじん)などの共通性から「シベリア・バイカル湖周辺を経由した北ルート」が強く主張されていました。

※日本列島における細石刃(さいせきじん)の最古の例として、北海道で約2万5000年前・本州で約2万年前があり、シベリア・バイカル湖周辺 / モンゴルの 約3万年前〜3万5,000年前の方が古い

細石刃に関する記事↓

2020年に覚張氏(金沢大学)、太田氏(東京大学)らによって発表された論文によれば、愛知県で見つかった約2,500年前の縄文人の人骨(伊川津個体:IK002)をゲノム解析した結果、過去に北海道礼文島で見つかっていた約3,500〜3,800年前の縄文人(船泊個体)と、遺伝的に非常に近いグループであったと報告されました。

つまり、住む時代と場所(北海道礼文島と本州・愛知県)は異なれど、同じ「縄文人」が生活していたことがわかります。

また、北海道礼文島船泊縄文人、本州の伊川津縄文人は、北方ルート(シベリアのマルタ個体系統)の遺伝子の寄与を受けていないことから、これらの縄文人は南ルートを通って日本列島にやってきた可能性が高いことがわかりました。

 

だとすれば、2.5万年前北海道に細石刃を伝えたのは誰なのか…という新たな謎が生まれ、以下の3つの説が考えられます。

  1. 人の移住ではなく技術だけが伝わった
  2. 細石刃の技術を持っていたのはシベリアのマルタ個体系統ではなく大陸にも住んでいた縄文人だった
  3. 細石刃の技術を持ったシベリアのマルタ個体系統が北海道に移住したが礼文島には本州から移住した縄文人が住んでいた

 

2.5万年前は最終氷河期で気温が現在よりも約7度低く北海道北部は永久凍土であったことを考えると船でスイスイ後悔して技術だけを手に入れるよりも、温かくて食糧の多い地域を歩いて渡ってきたと考えており、②の説を支持しています。 今後、大陸から縄文人と同じ系統の遺伝子が発見されることを期待しています。

 

 

縄文人は南からやって来た?

 

縄文人のゲノムを詳しく調べると、縄文人と親戚関係にある人々が、日本列島以外にもいることがわかってきました。

例えば、台湾の先住民(アミ族やタイヤル族)の人々です。アミ族の遺伝的構成の約41%が縄文人に関連する系統を占めており(現在の本州日本人約8%より多い)、アミ族・タイヤル属は他の東アジア集団よりも優位に多くの縄文人の遺伝子座を保有していることがわかっています。

また、愛知県の伊川津縄文人は、さらに南のラオスの、約8000年前の東南アジア狩猟採集民でホアビン文化を営んだ個体と遺伝的な類似性があることも示されています。

また、ロシアの沿海州やオホーツク沿岸に住む人々(ウルチ、ニヴフ)の中にも、縄文人と共通する遺伝的な特徴が見つかっています。

つまり、日本列島にやって来た縄文人の祖先は、アジア大陸の南沿岸を東進・北上して広がった集団である可能性が高いということです。

2018年の海部氏と増山氏の研究では、日本列島の様々な遺跡から出土した先史時代人1,003体(うち縄文人797体)の上腕骨(二の腕の骨)の太の時空間的な変位を調べています。 その結果、沿岸部の集団は内陸の集団よりも優位に太く発達しており、とくに今回のゲノム他解析対象であった伊川津貝塚に近い保美貝塚から出土した個体にこの特徴が顕著にみられているといいます。

 

海部氏らは日常的にボートを漕ぐ動作が上腕に強い付加をかけて骨が太く発達したと推測しています。この特徴は、東南アジアから島々や沿岸部を通って北上した可能性を示唆しています。

 

 

 まとめ

  • 日本列島には少なくとも3万8,000年前から人類が住んでおり、縄文人はその最初期の定住者の直系の子孫である可能性が高い
  • 北海道から本州まで、縄文人は数千年にわたって共通の遺伝的基盤を持つ一つのグループを形成していた
  • 縄文人の遺伝的特徴は、台湾先住民や東アジア沿岸の人々と強く結びついており、海を生活の場としていた姿が浮かび上がる

 

鬼滅の刃と日本史 鳴女のモデル・由来は日本神話

『鬼滅の刃』に登場する「鳴女(なきめ)」の名前と、日本最古の歴史書『古事記』に記された悲劇の伝承の繋がりについて紐解いていきます。

 

 

鬼滅の刃の「鳴女」とは?

『鬼滅の刃』より

『鬼滅の刃』に登場する鳴女は、鬼舞辻無惨に仕え、琵琶の音とともに異空間「無限城」を縦横無尽に操る女性の鬼です。

『鬼滅の刃』より

長い前髪で顔を隠した異様な佇まいでありながら、圧倒的な空間操作能力と索敵能力を有し、物語の後半では「上弦の肆」へと昇格を遂げました。

『鬼滅の刃』より

「空間そのものを支配し、敵を寄せ付けない」という唯一無二の異能は、鬼殺隊にとっても最大の脅威として立ちふさがります。

 

この「鳴女」という特徴的な名前は、実は日本の古代神話に登場する神の使いの名と深く重なっているのをご存知でしょうか。

『古事記』に登場する「鳴女」と「天の返し矢」の伝承

鳴女は『古事記』の出雲国譲り神話に登場します。天上の「高天原(たかまのはら)」の神は、地上の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めるのに相応しいのは天の神だと考え、地上に使者を送ります。

『神武』2より

最初の使者として派遣されたのは天若日子(あめのはかひこ)という神でした。

 

しかし、天若日子(あめのはかひこ)は、8年もの間音信不通となったため、様子を確かめるべく高天原から一羽のキジ(雉)が遣わされました。

このキジの名前が「鳴女(なきめ)」です。

 

鳴女は天からの問いかけを伝えに飛び立ちますが、天若日子の側近である天探女(あめのさぐめ)に「不吉な鳥だ」と唆された天若日子によって、矢で射抜かれてしまいます。

鳴女を貫いた矢は高天原まで届き、事態を悟った高木神(たかぎのかみ)によって「邪心があるならばこの矢に当たれ」と地上へ投げ返されます。

その矢は寝転んでいた天若日子の胸を貫き、彼自身の命を奪うこととなりました。

 

これが鳴女が登場する「天の返矢(あめのかえしや)」は、『古事記』の神話です。

 

天若日子と哭女(なきめ)

鳴女と漢字は異なりますが、同一の名前を持つ人物が話の続きに登場します。

 

天若日子が亡くなった後、彼を弔うための盛大な葬儀が行われました。

 

この祭祀において、キジは声を上げて泣き叫ぶ役割である「哭女(なきめ)」を務めたと記録されています。

 

古代の日本では、お葬式のときに大きな声で泣き叫び、死者の魂を弔う(または復活を願う)「哭女(なきめ / 泣き女)」という職業がありました。アメノワカヒコの葬儀では、キジに、大きな声で泣く係(=哭女:ナキメ)という役割が与えられたということです。

 

 

まとめ

  • 『鬼滅の刃』の鳴女は琵琶の音で異空間「無限城」を操る上弦の肆であり、空間支配と索敵に特化した鬼である

  • 『古事記』における鳴女は高天原から遣わされたキジの使者であり、射殺されるが、その事件が「天の返し矢」の伝承へとつながる

  • 使者として「鳴く」鳴女、葬儀で泣く「哭女」、そして命を落とした「亡き女」という、神話特有の多重構造が見られる

『モアナと伝説の海』とハワイ神話の関係 日本神話との共通点を解説

ディズニー映画『モアナと伝説の海』は、美しい南太平洋の自然やポリネシアの伝統的な航海術をリアルに描いた人気作品です。

 作中に登場する世界観やキャラクターは、南太平洋のフィジー諸島やハワイに伝わる神話・伝承が元になっています。

 この記事では、『モアナ』のモデルとなったハワイ神話の創世記や人気キャラ「マウイ」の伝承、さらに日本の神話(国産み・国引きなど)との共通点について解説します。

 

 

 『モアナと伝説の海』のモデルはハワイ神話?

『モアナと伝説の海』の背景には、ハワイ神話の独特な自然観が深く関わっています。

 ハワイ神話の創世記には、男性神「ワケア」と女性神「パパワハナウモク」がハワイの島々を生み出したとされる伝承が存在します。  

日本神話において伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)が日本列島を生み出した「国産み神話」と似ていますね。  

ふたりの間には「ホオ・ホクラカニ」という娘が生まれ、やがてワケアとの間に最初の子供「ハロアナカラウパリリ」が誕生します。しかし、残念ながら死産となってしまいました。  

ハロアナカラウパリリを埋葬した場所から植物が芽を出します。これこそが、ハワイの主食であり命の象徴とされる「タロイモ」の始まりです。

 その後生まれた2番目の子供「ハロワ」はハワイ人の祖先となり、兄である島々やタロイモを大切にすることで繁栄を築いていったといいます。

  英雄マウイの伝説

          『モアナと伝説の海』より

『モアナと伝説の海』に登場する半神半人のマウイは、ハワイ神話を語る上で欠かせない英雄です。

 

 マウイの母親は月の女神「ヒナ」、父親は人間の「アカラナ」であり、4人兄弟の末っ子として生まれました。

     『モアナと伝説の海』より

 先祖から授かった神聖な「魔法の巨大な釣り針」を手に、怪力を振るって人々を助ける姿は、まさに伝説のヒーローです。  

 

マウイの功績は多岐にわたります。

     『モアナと伝説の海』より

低かった空を押し上げ空を高くし、

     『モアナと伝説の海』より

火の起こし方を人間に教え、

    『モアナと伝説の海』より

太陽を縛り上げて昼の時間を長くし、

     『モアナと伝説の海』より

海の中から巨大な島を釣り上げたとされています。暮らしを豊かにするために自然の力に立ち向かう姿勢は、古代の人々の願いが形となったことを感謝しているように思えます。

 

 ハワイ神話と日本神話の共通点

ハワイ神話と日本の古事記・風土記などに記された神話には、多くの共通点が存在します。

 

マウイは誕生してすぐに海へ流されたという伝承があります。  これは、日本神話でイザナギとイザナミの間に生まれた最初の子供「ヒルコ(蛭子神)」が、葦舟に乗せられ川に流された説話と一致しています。

  マウイが魔法の釣り針で海から島を引き揚げた伝説は、『出雲国風土記』に登場する八束水臣津野命(やつかみずのおのみこと)の「国引き神話」を彷彿とさせます。  

また、縄文土器に見られる幾何学的な渦巻き模様と、劇中に登場する「テ・フィティの心」の模様や、体に刺青を入れる文化の類似性など、文化的なつながりを感じさせる要素が多々見られます。

            『モアナと伝説の海』より 

『モアナと伝説の海』にも登場したモアナの先祖たちは、すぐれた航海術とアウトリーガーカヌーを駆使して広大な太平洋を旅していました。

     『モアナと伝説の海』より

「 黒潮に乗って北上した人々の一部が日本列島の沿岸にたどり着き、文化や神話を伝えたのではないか」という歴史のロマンに思いを馳せると、映画の見方がさらに深まりますね。

 

まとめ 

  • 『モアナ』の背景にあるハワイ創世神話は、日本の国産み神話と共通する自然観を持っている。
  • 英雄マウイは人々の暮らしを良くするために様々な奇跡を起こした半神半人の英雄である。 
  • マウイの伝説には生まれてすぐ水に流された伝承や国引き説話など、日本神話との一致点がいくつも存在する。
  • 古代の航海者たちがカヌーで海を渡り、日本の文化にも影響を与えていたという壮大な歴史のロマンが感じられる。

 

呪術廻戦ドルゥヴ・ラクダワラの元ネタ・由来は?倭国大乱・卑弥呼との繋がりを日本史から解説

この記事では、『呪術廻戦』に登場するドルゥヴ・ラクダワラの元ネタ・由来について考察していきます。

 

 

 

呪術廻戦のドルゥヴ・ラクダワラとは

『呪術廻戦』173話より

死滅回游の仙台結界(コロニー)にて、四つ巴の一角として君臨していたドルゥヴ・ラクダワラ。

『呪術廻戦』173話より

作中では乙骨憂太によって速攻で撃破されてしまったため、そのセリフや性格は描かれませんでした。

『呪術廻戦』より

しかし、ドルゥヴ・ラクダワラは所持得点91点を誇り、特級呪霊の黒沐死(くろうるし)すら休眠を余儀なくされるほどの脅威として登場していました。

『呪術廻戦』より

ドルゥヴ・ラクダワラの術式は、二種の自立型式神を生成し、その「軌跡」を自らの必中領域とし、領域に触れた対照を削り取るというものです。 乙骨もコピーして使用して活躍していました。

『呪術廻戦』160話より

巨体を誇る式神が動き回るだけで広範な領域が自動的に拡張されていく仕組みは、倭国大乱にて単独で列島制圧を成し遂げたという実績を実現できそうな能力と言えます。

『呪術廻戦』173話より

一方で、当時の人口は日本列島全体でも約60万人程度と推測されており、現代(1.3億人)や平安時代(500万人)と比べると負の感情の総量や術師の強さが高くなかった可能性もありそうです。

 

乙骨に近接戦闘で瞬殺されているので…

 

ドルゥヴ・ラクダワラ名前の元ネタ・由来は?

公式展覧会等の情報によれば、「ドルゥヴ・ラクダワラ」という名前は受肉した現代人の名前であり、過去の術師本人の名前ではないようです。

 

受肉体のアニメでの褐色肌や、サンスクリット語(古代インドの言語)・シンハラ語(スリランカの公用語)に由来する名前から、器となった人物は南アジアにルーツを持つと考えられます。

アニメ『呪術廻戦』より

作品内で判明している中では最古「弥生時代(2世紀後半)」の人物であり、二度目の受肉を遂げたという経歴は謎に包まれています。

 

では、彼がかつて活躍したという「倭国大乱」とは、一体どのような時代背景だったのでしょうか。

 

ドルゥヴ・ラクダワラの元ネタ・由来は倭国大乱の鬼道?

ドルゥヴ・ラクダワラの経歴において最も重要なキーワードが、2世紀後半に起こったとされる「倭国大乱」です。

 

倭国大乱は、日本の歴史の中で実際にあった出来事であり、最古の大規模な戦争とも称されています。

 

倭国大乱が起きた当時の日本列島は小さな国々が激しく争う混迷の時代でした。

 

中国の『魏志倭人伝』という歴史書によると、長引く戦乱を収めるために一人の女王が擁立されたことが記されています。

倭国大乱を終息させた存在として『魏志倭人伝』に記されているのが、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)なのです。

卑弥呼(ひみこ)については「鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす」と評され、呪術的な権威をもって国々をまとめていたことがわかります。

 

ドルゥヴ・ラクダワラが使った「式神の軌跡を領域とする」術式もまた、「鬼道」の一種だったのではないでしょうか。

 

だとすれば、ドルゥヴ・ラクダワラこそが邪馬台国の卑弥呼による倭国大乱の平定を裏で進めた人、あるいな卑弥呼本人、もしくは列島を武力で制圧したものの、最終的に卑弥呼の「鬼道」に敗れ、呪物として封印される道を選んだのかもしれないと想像を掻き立てられますね。

 

ドルゥヴ・ラクダワラの正体 八咫烏(ヤタガラス)との関係

アニメ『呪術廻戦』より

最後に、アニメ『呪術廻戦』3期のオープニングカットにおいて、ドルゥヴ・ラクダワラとともに描かれた「八咫烏(ヤタガラス)」について考察します。

八咫烏とは、初代神武天皇が九州から大和に東征した神話において、熊野(現在の和歌山県)から大和までの案内をつとめた3本足のカラスです。

神話では、神武天皇が大和に到着すると、もともと大和を支配していたナガスネヒコを倒し、大和を統治していたニギハヤヒを臣下とすることで、大和の王として即位します。

現在の天皇は神武天皇から脈々と続く血筋であると言われているため、大和政権を樹立した始祖である神武天皇と八咫烏(ヤタガラス)の神話と、ドルゥヴ・ラクダワラの列島制圧のイメージを組み合わせているのか。

あるいは倭国大乱を鬼道で平定した卑弥呼こそが、ドルゥヴ・ラクダワラの正体であり、その子孫が神武天皇率いる大和政権に繋がっていることを意図しているのでしょうか。 あるいは1度目の受肉した正体が神武天皇を導いた八咫烏ということなのでしょうか。

 

まとめ

  • 『呪術廻戦』のドルゥヴ・ラクダワラは、巨大な式神の「軌跡」を領域化する術式を持ち、2世紀後半の倭国大乱を単独で制圧したとされる作中最古の術師である
  • 『呪術廻戦』のドルゥヴ・ラクダワラの名前は、受肉した現代人の名前であり、過去の本名は不明である
  • ドルゥヴ・ラクダワラの能力は『魏志倭人伝』の倭国大乱と、それを治めた邪馬台国の女王、卑弥呼の鬼道が元ネタ・由来となっている可能性がある
  • アニメ『呪術廻戦』OPにおける八咫烏とドルゥヴ・ラクダワラの対比は、いずれも日本列島を制圧したという事績が共通している