この記事では、日本書紀に登場する「日高見国」の位置や建国された時期、日高見国に住む蝦夷たちのルーツについて考察します。
日高見国とは?
「日高見」とは字の如く「太陽が高く昇るのを見る場所=東方の果て」を意味します。

『ヤマトタケル』3巻より
日高見国についての記述は、『日本書紀』と『常陸国風土記』に残されています。
『日本書紀』の景行天皇記において、東国から帰還した武内宿禰(たけうちのすくね)は天皇に次のように奏上しています。
「東夷(あずまえみし)の中、日高見国あり。その国の人、男女ともに椎結(かみをわけ)身を文(もどろ)けて、人と為り、勇み悍(こわ)し。是をすべて蝦夷(えみし)と曰ふ。また、土地沃壌(よくじょう)こえて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」
ここで語られる「身をもとろげて」とは、全身に刺青(タトゥー)を施しているという意味です。
この記述から、日高見国に暮らしていたのは大和朝廷から「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々であったことがわかります。
武内宿禰の報告を聞いた景行天皇は、東国にヤマトタケル(日本武尊)を派遣します。

『ヤマトタケル』3巻より
ヤマトタケル(日本武尊)の東征(蝦夷征討)の場面でも日高見国が登場します。
即ち蝦夷の境に入る。則ち賊首等の魁帥(かしら)、敢えて王師を拒ぐ。日本武尊、称えて曰さく、「吾は是現人神(あらひとがみ)の子なり。何ぞ敢えて服わざる」と。『日本書紀』(景行天皇40年10月条)
ヤマトタケルが「自分は現人神(天皇)の子である。なぜ服従しないのか」と威厳を示すと、恐れおののいた蝦夷たちは服従を誓ったとあります。すなわち、ヤマトタケルが蝦夷征討に成功し詠美氏が大和朝廷の支配下に入ったことを示しています。
そして蝦夷討伐の帰路について、次のように記されています。
「蝦夷の国、既に平らけぬ。日高見国より還りて、西南に常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮(さかおりのみや)に居ます。」 『日本書紀』の景行天皇40年是歳条
ヤマトタケルは日高見国を平定した後、西南へ向かって常陸国(現在の茨城県)を通り、甲斐国(山梨県)へ抜けて帰還したとあるのです。

つまり、日高見があった場所は現在でいう山梨県の北東、茨城県よりも北ということが推測されます。
日高見国の範囲
さらに、713年に編纂が開始され721年に成立した『常陸国風土記』には、次のような重要な記録があります。
孝徳天皇・白雉4年(653年)、物部河内(もののべのかわち)・物部会津(もののべのあいづ)等、惣領の高向大夫(たかむこのまえつきみ)等に請ひて、筑波・茨城の郡の七百戸を分ちて、信太(しだ)の郡を置けり。此の地は、本、日高見の国なり

筑波郡と茨城郡から700戸を分割して「信太郡(現在の茨城県稲敷郡周辺)」を新設した際、「この地はもともと日高見国であった」と明記されています。
これらの記述を総合すると、日高見国とは東北地方だけを指すのではなく、北関東(茨城県周辺)から東北全域にまたがる広大な文化圏・領域であったことが推測できます。
黒潮に乗ってきた人々
それでは、日高見国に住んでいた「蝦夷」とは一体どのような人々だったのでしょうか。

以前の記事では、パプアニューギニアなどで活動していた古代海洋民族が黒潮に乗って日本列島にやって来たとまとめました。(下記のブログ参照)
礼文島・船泊遺跡のゲノム解析 北海道の船泊(ふなどまり)遺跡から出土した縄文人のゲノム解析を行うと、遺伝子系統樹においてパプアニューギニア人と共通の祖先から分岐しています。
共通祖先をもつ集団の一方は南へ(パプア方面)、一方は北〜東へ(日本列島方面)渡り、それぞれ数万年単位で孤立したというのが遺伝学的な解釈です。

神澤秀明ら『Anthropological Science』2019年論文 補足資料Fig. S7より引用・加工
つまり、縄文人の一部は、たしかに遥か南方の太平洋から海を渡ってきた海洋民族の子孫なのです。

パプアニューギニア系の遺伝子と繋がりを持ち、南太平洋の海洋文化を色濃く残す存在として、ニュージーランドの原住民「マオリ族」がいます。
マオリ族と古代蝦夷(エミシ)には、以下の共通点が存在します。


縄文時代の土偶には顔に入れ墨をほどこしたものが多く出土しています。


『ヤマトタケル』1巻より
『魏志倭人伝』の時代、そして神武天皇の東征の時代にも顔に入れ墨を入れる風習がのこっていたことがわかります。
日高見国はいつ作られたのか?
南方から黒潮に乗って北上してやってきた集団が蝦夷のルーツであるとするならば、日高見国が作られたのはいつなのでしょうか。
彼らは、暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかる絶好の潮目である仙台湾・石巻周辺から上陸したと考えられます。

海洋民の足跡には、現在も「巨石」が残されています。

- 巻石(まきいし):石巻の地名の由来となった北上川河岸の巨石

- 釣石(つりいし):宮城県石巻市にある釣石神社の御神体の巨石

さらに、続石の近くにある金取(かねどり)遺跡からは、約8万〜9万年前の地層から石器が出土しています。

南方系の海洋民がこの地に到達し、日高見国を築いたのはこの頃だと考えられます。
「日高見国」と「十和田王国」 の国境

北上川に沿ってさらに北上していくと、湯船沢環状列石・釜石環状列石(岩手県)、大湯環状列石(秋田県)といったストーンサークルが存在します。

しかし、釜石環状列石と大湯環状列石の間には険しい山岳地帯があります。 この山岳地帯を越える往来がなかったと仮定すると、北上川流域を中心とする「日高見国」と、十和田湖から流れる米代川周辺の「十和田国」という、異なる二つの縄文王国・文化圏が存在した可能性があります。

豪雨による被害予想マップより
岩手県北部の分水嶺を境に、南側は北上川の源流(起点)となり太平洋へ注ぎ、北側は馬淵川となって青森県八戸市の日本海・太平洋側へ流れていきます。この分水嶺付近が亜寒帯気候・亜寒帯性植物の境界線となっています。
現代でもこの境界線を挟んで言葉のアクセントが大きく変わります。境界線の北側(一戸町〜青森県八戸市)と境界線の南側(岩手町〜北上市)では、同じ「南部弁」エリアでありながら、方言のアクセントが異なるそうです。

マオリ族とナマハゲ
十和田圏域には海を渡ってきた巨大な鬼の伝説である「ナマハゲ」文化が根付いています。 ナマハゲのモデルは遠い昔にこの地にたどり着いた海洋民族なのでしょうか。
常陸国(信太郡)に残る海洋民族の痕跡

日高見国の南限とされる常陸国(茨城県)の信太郡周辺にも、海洋民族の痕跡が見られます。


- 大甕(おおみか)神社の「星の神」: 大甕神社では、全国的にも珍しい星の神(天津願星・香香背男)が祀られています。

海洋民族は広大な海を渡るため、星を見て方角を知る「スターナビゲーション(星間航海術)」を行っていたことの名残が、星の神への信仰に繋がったのでしょうか。
また、この地には、タケミカヅチやフツヌシといった大和朝廷側の神々によって打ち取られ、忠誠を誓わされたという平定神話が語り継がれています。
この神話は大和政権によって、海洋民の子孫である縄文人が平定され支配下に入ったことを語っているようにも思えます。
黄金をめぐる激闘とアテルイ伝説
時代が下り8世紀末から9世紀初頭、大和朝廷は日高見国の領域への統制を本格化させます。

有名なのは、蝦夷の族長の阿弖流為(あてるい)と征夷大将軍・坂上田村麻呂の壮絶な戦いです。 阿弖流為(あてるい)は、延暦21年(802年)、坂上田村麻呂に降伏し、京都へ向かいました。
朝廷に対して坂の上田村麻呂は阿弖流為の存命を求めますが叶わず、延暦21年8月13日河内国で処刑されてしまいます。
廷がなぜこれほどまでに東北への侵攻を急いだのか。その背景には「金(ゴールド)」がありました。
当時、奈良の平城京では東大寺の大仏建立が進められており(743年~)、大量の金箔・黄金を必要としていました。
そんな中、宮城県の黄金山(こがねやま)金山で日本初の金が発見されます。大和政府が金脈と土地を力づくで奪いにきたため、自らの土地を守るべく蝦夷たちが立ち上がり、激しい反乱(蝦夷戦争)へと発展していったのです。
岩手県一関市には、かつて「鬼死骸(おにしがい)村」という地名が存在しました。
これは、坂上田村麻呂が討伐した伝説上の蝦夷の首長・大武丸(おおたけまる)の死骸が葬られたという伝説に由来しています。朝廷側から「鬼」と恐れられた蝦夷の英傑たちの記憶が、地名として刻み込まれた一例と言えます。

阿弖流為や大武丸の面は大きな鼻に鬼のようないかつい形相で作られていますが、上方をみると頭の上にお団子を作っており、南方からやってきた海洋民の特徴を残しています。
まとめ
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日高見国は「太陽が高く昇る東方の果て」を意味し、茨城県(旧・信太郡)から東北地方にかけての広大な領域を指した
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縄文人の一部は黒潮に乗って北上した南方系海洋民(パプアニューギニア人やマオリ族と共通の祖先をもつ)であり、全身の刺青や髪型、巨石信仰、星間航海術にその痕跡が残る
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分水嶺(気候・方言の境界)を挟み、北上川流域の「日高見国」と、ナマハゲ伝説が残る米代川周辺の「十和田国」の2つの文化圏が存在した可能性がある
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平城京の大仏建立に伴う金(ゴールド)の獲得を目的に大和朝廷が侵攻し、阿弖流為(アテルイ)ら蝦夷が激しく抵抗した