蒲原神社(かんばらじんじゃ)
社格:旧村社
蒲原神社の祭神
・椎根津彦命(しいねつひこ)
・五行の神(火の神、水の神、木の神、金の神、土の神)
・菅原道真公
・畠山六郎重宗
蒲原神社の創建
創設期は大化の改新後律令によって神社制度が定められた時代と推定される。1979年越後国蒲原郡の青海神社は延喜式に二座と記録されており、現在の加茂市の賀茂山にある青海神社(加茂大明神)と、現在の新潟市長嶺にある蒲原神社(五社神社)などとされている。
平安朝時代、椎根津彦が蒲原の港に土着して総鎮守として金鉢山(現在の新潟市中央区万代島付近)に鎮座し、青海神社と呼ばれた。
南北朝時代、南北戦争の折に金鉢山に蒲原津城が建設され、敗者側の山にあった青海神社は解体となり、神官も追放された。追放された神官は五行の神を祀り、五社宮として生き延びた。
戦国時代末期、青海神社の生き残りがいると知った新発田重家が新たに社殿を建造し、五社宮は廃社のところを復興することができた。
1688年(元禄元年)の信濃川決壊により、元禄元年金鉢山から現在の場所に移転した。
1968年(昭和43年)には「蒲原まつり」の俗称が有名になったため「五社神社」から「蒲原神社」へと社名が変わった。
なお、蒲原神社のお祭りは、3日間で24万人が訪れる新潟県三大高市の一つです。
蒲原神社神社の由来を考察
『延喜式神名前帳』が記された平安時代(927年)には「青海神社」と呼ばれていたとわかります。
同じく『延喜式』に記載される新潟県加茂市の「青海神社」は椎根津彦命を祀っており、726年(神亀3年)に創建された。当地青海郷を開拓した青海首らが、祖先神である椎根津彦命を始めとする諸神を祀る神社を創建したのが当社の起源とされています。
蒲原神社も同様に椎根津彦を祀る海の民によって作られたのでしょう。
海の民が祀る椎根津彦命とは?
椎根津彦命は神武天皇が東征において速吸門で船路の先導者となり神武天皇を助けた国津神です。
『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったとあります。
上のように元伊勢籠神社に伝わる『海部氏系図』によると倭宿禰(椎根津彦) は天香具山命の孫とされています。
二人とも神武天皇を助けた神話があり矛盾がありますが、少なくとも同じ祖先を持つ一族であり、海の民であった事は推測できます。
過去の記事でとまとめたように天香山命の一族は海の民として、丹後→越後へ影響力を広げていったのではないでしょうか。
なお、平安時代には現在と異なる場所に鎮座していたとあり、椎根津彦が蒲原の港に土着して金鉢山(現在の新潟市中央区万代島付近)を総鎮守としたとあります。
平安時代まで椎根津彦が存命なわけがないので、その一族のことか、名前を継承していたのでしょう。
青海神社廃社?激動の南北朝時代
南北朝時代には金鉢山に蒲原津城が建設されていましたが、敗者となり青海神社は解体、神官追放されています。
神官は青海神社を存続させるために椎根津彦を隠して、五行の神を祀り、五社宮としたようです。
戦国時代末期になってようやく、青海神社の生き残りがいると知った新発田重家によって復興することができたとありますから激動です。
五社宮になった後の場所はわかりませんが、復興した場所は金鉢山だったようです。
現在の地に移ってきたのは江戸時代1688年(元禄元年)に信濃川が決壊したときとあります。
長嶺町に鎮座する奈佳美禰神社があったこの地に移ったのでしょう。
その際に菅原道真も祀られたそうで、境内には現在も天満宮のシンボルである牛がいます。
●天満宮に牛がいる理由
まとめ
・海の民が祖先の椎根津彦を祀って金鉢山に作ったのが始まり。
・青海神社と呼ばれていたが南北朝時代に争いに巻き込まれ五社宮と名乗った。
・江戸時代の信濃川の洪水によって金鉢山から現在の地に移った。