
『逃げ上手の若君』四巻より
今回は『逃げ上手の若君』四巻26話に登場した、保科弥三郎(ほしなやさぶろう)を深掘りしていきます。
※『逃げ上手の若君』四巻のネタバレを含みます。

保科弥三郎(ほしなやさぶろう)の時代
目次
保科弥三郎(ほしな やさぶろう)とは?

『逃げ上手の若君』四巻より
保科弥三郎(ほしなやさぶろう)は北信濃の小領主として登場します。

信濃国中井郡に保科(現在の長野県長野市若穂保科)という地名があり、保科氏はこの地域の領主だったようです。
北信濃は小笠原貞宗(おがさわらさだむね)の領地でしたが、諏訪神党(諏訪大社を中心として形成された武士団)に属していたため、保科の身を案じた諏訪頼重(すわよりしげ)が北条時行(ほうじょうときゆき)一行を派遣したのでした。
保科弥三郎(ほしな やさぶろう)は実在する?
保科弥三郎(ほしなやさぶろう)は実在したことがわかっています。
市河助房が小笠原貞宗に提出した『市河文書』という古文書があります。
1335年の中先代の乱の様子を記した部分にに「保科弥三郎」の名前が残っています。
7月14日に保科弥三郎・四宮左衛門太郎が北信濃で蜂起し市河助房たちと戦った、とあります。

『中先代の乱』(鈴木由美)によると、保科、四宮の蜂起は北条時行、諏訪頼重らが鎌倉へ進軍するのをカモフラージュする陽動作戦だった可能性があるそうです。
保科氏の先祖ははっきりとわかっていませんが、清和源氏井上氏もしくは古代氏族の他田部氏とする説があります。
保科弥三郎(ほしな やさぶろう)の子孫は?

『逃げ上手の若君』四巻より
保科弥三郎(ほしなやさぶろう)の子孫は武田氏に仕えた後、徳川家康の家臣となります。徳川秀忠の庶子正之(まさゆき)が保科正光の養子に入った際に、松平に改姓して親藩大名の会津松平家となりました。

保科正之(ほしなまさゆき)は信濃国高遠藩藩主、出羽国山形藩藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主となり、会津松平家の祖となります。

幕末に京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任命され新撰組を管轄した松平容保(まつだいらかたもり)も保科氏の子孫ということになりますね。
苗字は保科から松平に改姓してますが、名前に「保」の文字が入っており繋がりを感じます。
まとめ
・保科氏は北信濃の領主である。
・保科弥三郎(ほしなやさぶろう)は実在しており、『市河文書』に登場する。
・保科弥三郎(ほしなやさぶろう)の子孫は徳川家康に仕え、会津藩主松平氏となった。