本八戸駅から中心街に徒歩で向かう途中に八戸城跡に立ち寄りました。
八戸根城を築城した南部師行
八戸市内には鎌倉時代末に南部氏によって作られた2つの城がありました。ひとつが八戸根城(ねじょう)でもうひとつが八戸城です。
八戸根城は本八戸駅駅や八戸中心街の西側にある城で南部師行(もろゆき)によって築城されました。
南部氏は鎌倉時代、奥州合戦で活躍した南部光行が東北に領地を与えられたことに始まり、南部師行もまた北畠顕家(陸奥国司)の国代としてこの地を治めていました。
逃げ上手の若君より
元弘3年/正慶2年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、新田義貞の軍勢に加わって活躍します。後醍醐天皇の建武の新政が開始されると、南部一族も武者所など枢要な役職に編成されています。
逃げ上手の若君より
同年10月、陸奥守北畠顕家に従って後醍醐天皇の皇子の義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)に下向しています。
南部師行は北畠氏を頂点とする統治機構、所謂「奥州小幕府」の一員となり、糠部郡(岩手県北から青森県南にかけて一から九の数字に「戸」が付く地名)の郡代として命ぜられ、行政の管掌を担当しました。
八戸入りした南部師行が築城したのが根城(現在の青森県八戸市根城)です。
南部師行は北畠顕家とともに後醍醐天皇側で奮戦しますが大阪堺の地で命を落とします。
八戸城とは?
八戸城はJR八戸線本八戸駅から南側にある中心街へ向かって歩いていく途中にあります。
八戸城は八戸氏4代当主南部師行の孫の信助が築城したものであろうと考えられています。
八戸の南部一族は国代として2つの城を拠点にこの地を治めてきました。
時は流れて戦国時代になると、南部氏の子孫間で家督を巡る争いが発生するようになります。
家督争いの中で豊臣秀吉から第26代南部氏の当主として認められたのは、三戸の南部信直でした。
これに反発したのが南部氏の血を引く九戸政実らです。豊臣秀吉の奥州仕置によって九戸政実は南部信直の家臣として服属する事を求められたためでした。
九戸政実は豊臣秀吉が派遣した奥州仕置軍によって討伐されると、南部信直の子、利直によって八戸城が直接統治されることになります。
利直が城下町を整備して商家を整備したことご今の八戸中心街の元になったようです。
高台になっている八戸城跡からは八戸の街並みが一望できます。
●八戸の八太郎はねぶた祭りで有名?