古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きなサラリーマンが全国を旅した発見を書き連ねます。

埼玉旅:豊城入彦の末裔奈良別を祀る奈良神社

群馬県を開拓した豊城入彦(第10代崇神天皇の皇子)の子孫が開拓した伝承を持つ神社が埼玉県にあると知り訪問しました。

奈良神社とは?

社 号:奈良神社(ならのじんじゃ) 

旧 称:熊野社

御祭神:奈良別命(ならわけのみこと)

創 建:不詳

社 格:延喜式内小社・旧村社

例 祭:4月15日 (春祭り) 10月15日(秋祭り)

指 定:- 鎮座地:埼玉県熊谷市中奈良1969

 

埼玉県熊谷市北は利根川・南は荒川のほぼ中間の地域に「奈良(なら)」という地名があり、奈良神社が鎮座しています。神社の南1㎞程の処には古代 の官道である東山道武蔵道(後の中山道)が通っています。

東山道東山道武蔵路(むさしみち)」これは当初東山道の本道の一部として開通した官道の一つで、後に支道となったと言われる道である。上野国群馬県)から下野国(栃木県)を経て武蔵国国府東京都府中市)に至るルート。

奈良神社と書いて「ならのじんじゃ」と読みます。  

奈良神社は『延喜式』に幡羅郡4座と記されている式内社のうちの一社で近くには和銅4年と記された石がありました。和銅4年(711年)に式内社という概念があったのかは謎です。

奈良神社の由緒

「埼玉の神社」には奈良神社の由緒が以下ように記されています。

 社伝によると当社は、下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、祀ったものであるといい、また、当社東北一キロメートル所にある横塚山と呼ばれる前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。ちなみに、奈良別命については『先代旧事本紀 国造本紀』に、仁徳天皇の御世、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命されたことが記されている。

 

このように下野国造となった奈良別がこの地で最期を迎えたとあるのです。

奈良別命とは?

奈良神社の祭神である「奈良別命(ならわけのみこと)」については栃木県にある下野国一宮 宇都宮二荒山神社の由緒に次の記述があります。

 

 主祭神豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。   古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。                                                                                  全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁より

 

その他にも奈良別にまつわる伝承をもう神社が栃木県に1社あります。

野木神社 (栃木県下都賀郡野木町) - 奈良別王が下毛野国造赴任の際、菟道稚郎子命の遺骸を奉じて祀ったという。 

菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)は仁徳天皇の弟にあたります。

 

横塚山古墳には奈良別命が埋葬されている?

奈良神社の由緒にあるように奈良別王は横塚山古墳に埋葬されているのでしょうか。

横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m前方部で2.5mです。  妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると五世紀末と考えられます。しかし、埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。                                                                                                                                                                           熊谷市教育委員会より

 

横塚山古墳周辺からは埴輪や土器が出土しており、かつては古墳が多くあったと考えられているようです。

 

横塚山古墳は5世紀末と推定されていますが、奈良別命の時代と一致するのでしょうか。

歴代天皇の誕生年を推定した

先代旧事本紀』にあるように崇神天皇の皇子豊城入彦の4世孫だとすれば応神天皇と同世代にあたり、西暦300〜350年に誕生した人物だと考えられます。

 

5世紀末に作られた横塚山古墳が奈良別命が埋葬されているとすれば、『先代旧事本紀』の記載は誤りであると言えるでしょう。

新撰姓氏録』大網公条には「豊城入彦命六世孫 下毛君奈良」が、吉弥侯部条に「豊城入彦命六世孫 奈良君」として見え、弟に「真若君」がいると記されています。

 

豊城入彦の6世孫だとすれば允恭天皇の世代360-390年に誕生したと推測され横塚山古墳の時代ともおおよそ一致します。

 

まとめ

・奈良別に関する伝承を残す神社は北関東(栃木県、埼玉県)に残っている。

・奈良別命を祀る奈良神社には奈良別命がこの地で没した伝承がある。

・奈良神社に近い横塚山古墳の築造年は『新撰姓氏録』の系図と一致するが、『先代旧事本紀』とは一致しない。

 

東山道武蔵道には奈良神社の他にも複数の式内社が鎮座しており、いかに重要なものだったかわかります。

 

 東山道武蔵道は東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳(5世紀前半)がある群馬県太田市にも続いており、中央政府と北関東の王を繋ぐ街道であったと考えらると面白いですね。

●奈良別の祖である豊城入彦は群馬県の守護神?