前回の記事では古代の東日本に毛野国(けのくに)という巨大な王国があったとまとめました。
今回は毛野国から分かれた上毛野国の歴史について探っていきます。
目次
御諸別王(みもろわけのみこ)とは?
御諸別王は第10代崇神天皇のひ孫にあたります。大和の天皇家の血筋であったため王(みこ)と呼ばれていたようです。
父の彦狭島王(ひこさしまおう)が初代上毛野国造に命じられたが、病死したので代わりに東国に赴任した人物とされており、古代の群馬県との関わりも深い人物です。
『日本書紀』景行天皇55年2月条彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑(あなくいのむら)に至り病死した。
御別王の父、彦狭島が没した春日の穴咋邑とはどこだったのでしょうか?
春日の穴咋邑(あなくいのむら)とは?
春日の穴咋邑ですが、群馬県西部に接する現在の長野県佐久市望月町とする説があります。
大谷地(おおやじ)から春日に抜けていく山の中に内裏塚(だいりつか)古墳がある。 1号墳と2号墳の2基。いずれも方墳。案内していただいた地元の研究者によると望月町には彦狭島王(ひこさしまおう) 伝説があり、一説によると内裏塚古墳も彦狭島王の墓ともいわれている。
地元望月町(『長野県町村誌』)ではこの春日穴咋邑が望月町春日のこととされ、彦狭島王の墓と伝えられるものにこの内裏塚古墳 以外にも王塚古墳(こちらは大宮諏訪宮内)がある。
古代西日本と東日本を結ぶ陸路である「東山道」は長野県を通って群馬県へ至っていました。
彦狭島王が任命された東山道十五国都督の範囲は不明ですが、群馬県に到着する直前に病で亡くなってしまったことがわかります。
御諸別王の陵墓は?
父の跡を継いで東国統治を任じられた御諸別王は善政をしいたこと、蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨も『日本書紀』記載されています。
前回の記事で群馬県最大の前方後円墳である太田天神山古墳(5世紀)は大荒田別が埋葬されていると妄想しましたが、年代的に御諸別王は浅間山古墳、別所茶臼山古墳、白石稲荷山古墳あたりに埋葬されていると予想しています。
浅間山古墳は東日本で第二位の規模を誇り、太田天神山古墳ができる以前では東日本最大、別所茶臼山古墳は東日本で第三位の規模を誇り、どちらも王族である御諸別王の陵墓として申し分ないです。
御諸別王の陵墓に関する記事はこちら
御諸別王を祀る神社は?
東国に赴任した初めての上毛野国造であるにもかかわらず、御諸別王を祀る神社は多くありません。
・御室社(みむろしゃ)
埼玉県加須市上樋遣川
由緒をみると、三諸別王(みもろわけおう)がこの地を開発したことから領民が王の徳を称えて御陵である諸塚に社殿を建立したとあります。三諸別王が火矢を用いたことから「樋遣川(ひやりかわ)」の地名が残っています。
近くの御室塚古墳(円墳)は御諸別王の墳墓と言い伝えがあるようですが、築造年代が異なることから断言できません。
しかし、『新年武蔵風土記稿』には江戸時代にはこの地に7つの塚があったとされ、そのうちの一つが「穴咋(あなくいづか)」と呼ばれていたとあります。なんらかの形で御諸別王と関わりがあったとみて間違いないでしょう。
(※穴咋邑は御諸別王の父が没した場所)
火雷神社の創建は第12代景行天皇の御代に、御諸別王が葛木坐火雷の分霊を勧請したのが始まりとされています。利根川の対岸にある伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源にもなっています。
御諸別王を派遣した景行天皇は日本武尊(やまとたける)の父です。御諸別王と日本武尊の絡みはあったのでしょうか。時代的には後継者になるのかな?