
昔、古代関東に毛野国(けのくに)がありました。ある時、毛野国は二つに分けられました。上毛野国(かみつけのくに)と下毛野国(しもつけのくに)です。 毛野国は誰によって?なぜ?2つに分かれたのか探っていきたいと思います。

目次
古代関東の巨大な王国?毛野国とは?

「毛野」(けの)とは古代の群馬県・栃木県南西部を指す地域名称です。由来は不明ですが、ここに住んでた蝦夷が大和人よりも体毛が濃かった説、アイヌ語でクンネ(黒いところの意味)が転じてケヌ国になった説などがあります。
「毛野」という名称が史書には登場しませんが、「上毛野(かみつけの)」や「下毛野(しもつけの)」の名称が見られることから、毛野が分かれた後のものと考えられています。

律令制施行後(701年以降)は、上毛野(かみつけの)は上野国(こうずけのくに)に、下毛野(しもつけの)は那須(栃木県北部)を加えて下野国(しもつけのくに:栃木県領域)と定められました。
「毛」の漢字は省略されてますが、「け」の読みは残ってますね。これは和銅6(713)年に政府から出された「諸国の郡名里名を好い字の二文字に改めて定着させよ」という命令(好字二字化令)だと思われます。 漢字二字にしましたがささやかな抵抗で読み方はそのままにしたのでしょうか。
「上毛(じょうもう)」カルタ
現在でも「毛野」の名残は、上毛・東毛・西毛・両毛という地域表現や、「毛野河」から鬼怒川(きぬがわ)の名称などに見られ、栃木県足利市には地区名として名前が現存しています。
毛野国は巨大な王国だった?
毛野地域があった北関東では、古墳時代にかなり多くの古墳が築かれています。

花見川流域を歩くより引用
古墳、横穴数を集計している方がいましたので引用させてもらいました。古墳、横穴は近畿圏が多い中、関東では千葉、次いで群馬が突出して多いことがわかります。

特に群馬県内では、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、墳丘長210メートルで全国26位)(5世紀前半ー中期)を始めとして、墳丘長が80メートルを越す大型古墳が45基!!総数では約1万3000基!!作られているのです。

Wikipediaより改変
古墳時代に盛んに古墳が作られた地域として畿内のほかに毛野、尾張・美濃、吉備、出雲、筑紫、日向が挙げれますが、太田天神山クラスの墳丘長200メートル以上の古墳が築かれたのは畿内、吉備、毛野のみです。
加えて畿内王墓に特有の「長持形石棺」の使用されており、毛野と畿内埋葬者の関連が指摘されています。
太田天神山古墳が作られた5世紀前半ー中期はどんな時代だったのでしょうか。
太田天神山古墳が作られた時代とは?
太田天神山古墳が作られた5世紀。まずは東アジアからみてみましょう。

堺市歴史博物館より
中国では北は騎馬民族、南は漢民族の王が存在する南北朝時代でした。中国の南朝と日本が交流していたことが記録として残っています。

中国の『 宋書 (そうじょ) 』『 梁書 (りょうしょ )』など南朝の 歴史書には讃(さん)・ 珍(ちん) ・ 済 (せい) ・ 興 (こう) ・ 武 (ぶ )の5人の倭王が413〜478年の間使いを送ったことが記されています。
現在の日本史では『古事記』『日本書紀』を根拠にして倭の五王は大和政権の人物として解釈しています。
では、中国と日本の間にある朝鮮半島はどうなっていたのかというと、かなり荒れていたようです。

朝鮮半島は魏、西晋の時代までは漢民族の支配下でしたが、313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされて以来は韓三国が覇権を争う戦国の時代に突入していたのです。

4世紀末〜5世紀前半にかけての三韓(高句麗、百済、新羅)の戦闘の記録は好太王碑に記されています。好太王碑には海を超えてやってきた倭軍と高句麗軍が戦ったとも記されています。
この朝鮮半島にやってきた倭軍の中に毛の王国から派遣されたような人物がいるのです。
好太王碑に記された人物は誰か?

『日本書紀』には好太王碑の頃の朝鮮半島への出兵に関する記載が多くあります。
神功皇后49年3月条では、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)という人物が将軍に任じられ新羅征討に参加し、神功皇后50年2月条に帰国した旨が記されています。
応神天皇15年8月条では、再び荒田別が巫別(かがわけ)とともに百済に派遣され、翌年王仁(わに)を連れて帰国しています。この条において、荒田別と巫別は「上毛野君の祖」と記載されているのです。

大荒田別は豊城入彦命四世孫で上毛野田道の父 『新撰姓氏録』より

田道は竹葉瀬の弟『日本書紀』より

系図をまとめると上になり、荒田別は10代崇神天皇の血筋であり、祖先は代々毛野国を収めてきた豪族であると推測されます。
※祖先の豊城入彦、彦狭王、御諸別王が毛野国を収めた記録あり。
崇神天皇の皇子、豊城入彦が東国は派遣された後、彦狭島王が初めて上毛野国造に任じられるが(※先代旧事本紀)病死し、代わりに子の御諸別王が東国へ赴任し、子の大荒田別、孫の田道や竹葉瀬は朝鮮半島で活躍しています。(詳しくは以下)
太田天神山古墳は誰の墓か?

荒田別の時代を予測してみました。右は実在が確かな天皇からさかのぼって歴代天皇の誕生年を予測したものです。(参照)大荒田別は第15代応神天皇と同世代なので、4世紀中旬〜4世紀後半に活躍した人物と考えられます。

太田天神山が作られたのは5世紀とされていますので、時代的に大荒田別が没したであろう年代と一致はします。
朝鮮半島から帰国した大荒田別は故郷の毛野国に戻った後亡くなり、大荒田別を埋葬するために作られたのが太田天神山古墳なのでしょうか。

太田市には鎌倉幕府を倒した新田義貞(にったよしさだ)が生まれた「新田荘(にったのしょう)」があります。奈良時代の遺跡から出土した瓦には「新田」と刻まれており、少なくとも奈良時代にはすでに新田と呼ばれていたとわかります。読み方は「にった」と伝わっていますが、「あらた」とも読めます。太田市の地名も元は「あらた」だったのではないだろうかと妄想は広がるばかりです。
妄想はさておき、太田天神山古墳からは近畿の豪族の古墳に見られる「長持型石棺」が出土しており、近畿の勢力と結びついていたことは確かなようです。
まとめ
・5世紀の北関東には日本有数の規模をほこる太田天神山古墳をはじめとする古墳群があった
・5世紀の東アジアは戦乱の時代であり日本からも兵を派遣していた
・北関東にゆかりのある毛野国の豪族(大荒田別ら)が朝鮮半島に派遣されていた可能性がある
・大荒田別は10代崇神天皇の末裔である
大荒田別の孫、奈良別が初代下毛野国造か?