
埼玉県と東京都の一部は古代において武蔵国(むさしのくに)と呼ばれていました。文献によってはムサシノクニが異なる漢字でまるで複数のムサシノクニが存在していたかのように記されています。この記事では武蔵国について考察していきます。
先代旧事本紀に伝わる2つの武蔵国造

『先代旧事本紀』国造本紀によれば、大宮氷川神社の創建に関わる出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が无邪志(むざし)国造となり、子の伊狭知直(いさちのあたい)が胸刺(むさし)国造となったとあります。
天邪志(むさし)国と胸刺(むさし)国は漢字が異なるため同じ国なのかは議論があります。
『先代旧事本紀』国造本紀が初代国造に任命された人物だけを記しているとすれば、无邪志(むざし)国と胸刺(むさし)国は異なる国であったと考えられます。
武蔵国2国説

『新編武蔵風土記稿』では二国造説に立って、氷川神社の鎮座する足立郡大宮を无邪志国造の本拠に、都下多摩郡を胸刺国造の本拠としています。『埼玉県史』も同じ立場です。
これに対して姓氏研究の大家太田亮は、胸刺は〝ムサシ〟と訓ずべきで无邪志と同名の国であること、国造本紀の記載に重複が考えられるとして同一国造説を唱えています。
個人的には武蔵国2国説と考えています。理由は『日本書紀』に記された武蔵国造の地位を巡る豪族の対立に関する記事です。
日本書紀に記された武蔵国造の争乱

『日本書紀』の第27代安閑天皇元年に武蔵国造の争乱に関する記事があります。6世紀前半
武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

上の伝承から安閑天皇の時代六世紀前半頃の武蔵国造は「笠原直」という豪族だったことがわかります。笠原という名が地名に関連するとすれば、その地として『倭名類聚抄』の埼玉郡笠原郷、今の鴻巣市東部の笠原沼に近い地域が考えられます。

笠原に近い埼玉古墳群は、時期的に笠原直使主と合致する古墳もあり、笠原氏に関連する墳墓である可能性があります。さきたま古墳の近くにはまだ豪族の住居跡地は発掘されていませんので、時の権力者笠原周辺に住んでいたのでしょうか。

さきたま古墳の5世紀前半〜中頃に作られた稲荷山古墳から出土している鉄剣には加差披余と刻まれており、これを「カサハラ」と読むのではという説もあります。

個人的には稲荷山古墳が作られたのは安閑天皇の時代よりも50年以上前であることから笠原のことでは無いと考えています。しかし鉄剣にあるようにさきたま古墳の被葬者が中央政府(大和)と関係があったことから、子孫の笠原も大和からの助太刀を受けることができたのでしょう。

笠原直使主と小杵の間で争われた武蔵国造は、国造本紀に出てくる2つのムサシノクニ国造と同じものなのか、もしくは武蔵全域を支配していた国造なのかは断定できません。『埼玉県史』ではこの内紛は、胸刺国造の系譜を引く小杵が、无邪志国造家の笠原直使主に亡ぼされ、以後胸刺は无邪志に合一されたとの見解を取っています。
また、飛鳥京・藤原宮の木簡には「无耶志国(むざし-)」とあることから、7世紀頃までは「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていたことがわかり、戦いに勝利した側の国名が残ったように思えます。
この説ならば兄多毛比命の末裔は笠原と伊狭知直の末裔は小杵となり、『日本書紀』に同族とあるのも頷けますね。
古墳が物語る南武蔵勢力の縮小

さきたま史跡の博物館より改変
武蔵国造を巡る争いが起きた6世紀前半を境にして大規模な古墳が作られなくなった地域があります。それが多摩川沿岸に4〜5世紀にかけて前方後円墳が築かれていた南武蔵地域なのです。
この争いに敗れた南武蔵、また協力したとされる上毛野では6世紀中旬以降は小規模な前方後円墳しか作られなくなっており、反して武蔵国北部であるさきたま古墳には次々と大規模な古墳が作られていきます。これは武蔵国の派遣が南から北に移り、古代から強力な勢力であった上毛野に睨みをきかす存在にもなったということでしょう。
まとめ
・古墳時代ムサシノクニは2つ存在していた可能性がある。
・2つのムサシノクニは6世紀前半に衝突し中央政府の支援を受けた无邪志国が戦いに勝利した。