この記事では『呪術廻戦』に登場する禪院家は実在するのか元ネタ・由来である日本三大怨霊の平将門について考察します。
禪院家とは?

禪院家とは、加茂家、五条家と並ぶ「呪術界御三家」の一つです。呪術師の名門の家系です。

『呪術廻戦』138話より
しかし、その長い歴史の中で「術式にあらずんば呪術師にあらず、呪術師にあらずんば人にあらず」という過激な思想が根付いています。

『呪術廻戦』より
一族には、影を媒介とする「十種影法術(とくさのかげぼうじゅつ)」や、動きをフレームで捉える「投射呪法」など、相伝術式が受け継がれています。

『呪術廻戦』42話より
その一方で、実力主義が極まっており、術式を持たない者には厳しい差別が行われるなど、非常に閉鎖的で保守的な家風が特徴です。
禪院家の家系図

禪院家の家系図
禪院家の家系図は複雑ですが、物語の中心となる人物たちは以下の通りです。
- 直毘人(なおびと): 第26代当主。投射呪法の使い手。
- 直哉(なおや): 直毘人の息子。次期当主を自認していたが、物語の中で悲劇的な末路を辿る。
- 扇(おうぎ): 直毘人の弟。真希・真依の父。
- 真希(まき):扇の娘。天与呪縛により呪力を持たず、冷遇されており、家を飛び出した。
- 真依(まい): 扇の娘。真希の双子の妹。

伏黒家家系図
- 甚爾(とうじ): 真希と同じく天与呪縛の持ち主。禪院家を捨て「伏黒」に改姓した。
- 恵(めぐみ): 甚爾の息子。相伝の「十種影法術」を継承しており、後に第27代当主となる。
このように、名門家系の時期当主の座を狙って血縁関係にあるもの同士が「呪い合う」しがらみが描かれています。
禪院家の元ネタ・由来は平将門
禪院家のモデル・モデルは「平将門(たいらのまさかど)」と言われています。

禪院家の家訓のようなフレーズ「禪院家にあらずんば……」は、平将門と同じ桓武平氏(桓武天皇の子孫の一族)である平清盛(たいらのきよもり)が全盛の時代に平時忠(たいらのときただ)が放った有名な言葉「平家にあらずんば人にあらず」のオマージュであると考えられます。
また、呪術界御三家は、日本の歴史で実在する「日本三大怨霊」に対応しているという説が有力です。
平将門とは?

平将門(たいら の まさかど)は、平安時代中期の関東で活躍した武将です。

元は天皇の末裔から臣籍降下(皇族から一般人になること)した一族(桓武平氏)の末裔である、平将門は朝廷に対して反乱を起こし、自ら「新皇(しんのう)」と称して関東の独立を宣言しました。

しかし、最終的には朝廷の軍によって討たれます。(940年)死後、その平将門の首が京都から江戸(現在の東京)まで飛んで帰ったという「首塚伝説」など、逸話が残されており、日本最大級の怨霊の一人として恐れられました。

『呪術廻戦』においても禪院直哉が呪霊した姿は頭と胴体だけになり空を飛んでいました。平将門の首伝説がモデルになってるのでしょうか?
また、平将門の乱の発端は、将門の父である平良将(たいらのよしまさ)が亡くなった後、将門が父の遺領を継承したことに対して伯父の平国香や良兼(よしかね)らが異を唱えたことがあります。これはまさに『呪術廻戦』における禪院家の家督争いと重なるものがありますね。
禪院家は平将門の末裔なのか?

『呪術廻戦』の中で五条悟と乙骨憂太は日本三大怨霊の菅原道真の子孫という設定が明かされています。
禪院家が平将門の子孫であるという情報は公開されていないものの、年代的には一致するのか考えてみます。

禪院家26代当主が直毘人は71歳のときに呪術廻戦の世界は2018年の設定なので逆算して初代当主の時代を予想しますと
1代あたりの期間を「約40年」と仮定した場合: 26代 × 40年 = 1040年前
2018年 - 1040年 = 西暦978年頃
となり、平将門(903年-940年)の死後約40年後に初代当主がいたと考えられ、一致していました。
また、現実にも平将門の子孫とされる家系には相馬氏や秩父氏がおり、平将門の子孫がどこかのタイミングで禪院を名乗ったとしてもおかしくはありません。
まとめ
・禪院家は呪術界の名門で御三家である
・禪院家の元ネタ・由来は平将門である可能性がある
・平将門の家督争いや首伝説、平家一門の発言は禪院家と一致する
・禅院家初代当主の時代は平将門の死後約30年であり設定としても矛盾しない