山形県の霊山、出羽三山の開祖は皇族であり、そのお方を祀る神社が大阪にあると知り参拝してきました。
堀越神社とは?

堀越神社は、第33代推古天皇の時代、聖徳太子が叔父にあたる崇峻(すしゅん)天皇を偲んで茶臼山に建立したのが始まりと伝えられています。

JRもしく地下鉄御堂筋線の天王寺駅から徒歩5分くらいのところに鎮座していました。

祭神は、崇峻(すしゅん)天皇、妃である小手姫皇后(こてひめこうごう)、子の蜂子皇子(はちのこのおうじ)、妃の錦代皇女(にしきでこうじょ)が配祀神として祀られています。

その歴史は古く、日本最古の官寺である四天王寺と同時期に創建されたと言われています。

大坂夏の陣の際、徳川家康が窮地に陥ったところをこの神社の神威によって救われたという言い伝えがあり、それ以来、家康公から厚い信仰を寄せられるようになったといいます。

境内にある熊野第一王子之宮。京都から熊野へ参拝する際に巡っていく、熊野九十九王子のうちのひとつ。かつては四天王寺に鎮座していたものが移されています。
崇峻天皇とは?
堀越神社の主祭神である第32代崇峻天皇は、飛鳥時代の天皇です。

両親は、第29代欽明天皇と蘇我尾稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)(蘇我馬子の妹)の子として生まれました。

第31代用明天皇の次の天皇をめぐって蘇我氏と物部氏が争った丁未の乱(ていびのらん)(587年)の結果、第32代天皇として即位しました。(当時35歳)
第29代欽明→第30代敏達→
第31代用明→第32代崇峻
崇峻天皇の生涯は非常に悲劇的なもので、崇峻天皇5年(592年)11月3日、叔父(母の兄)にあたる蘇我馬子によって暗殺されたと伝えられています。当時40歳。即位から5年後のことでした。
天皇が臣下の手によって暗殺されるのは、日本史上でも極めて稀な事件です。

崇峻天皇の陵(みささぎ)は、崇峻天皇が宮を置いた倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)(奈良県桜井市大字倉橋)に治定されています。

Wikipediaのこちらの崇峻天皇の肖像画ですが、40歳で亡くなったにしては年を取りすぎているような・・・これは誰なのでしょうか。
崇峻天皇の皇子が東北へ逃れ出羽三山を開いた?

崇峻天皇暗殺の混乱の中、その第三皇子である蜂子皇子(はちのこのおうじ)もまた、命を狙われる身となりました。

伝承によると、蜂子皇子は都を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市)から船で北へと逃れ、遠く離れた現在の山形県鶴岡市の由良に辿り着いたといいます。

蜂子皇子はこの地で厳しい修行を重ね、現在も山岳信仰の聖地として知られる「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)」の開祖となったと伝えられています。
この伝説のソースでは、南北朝次代、14世紀成立した各地の神社の社伝をまとめた『神道集』です。『神道集』には能除(のうじょ)という人物が出羽三山を開いたと記されており、直接崇峻天皇とはかかれていないようです。
そのあと江戸時代に成立した『羽黒山縁起』には崇峻天皇の皇子が、丹後から海路で山形県にたどり着き、皇子が修行によって人々の苦しみを取り除いたので、「能除大師」の名を天皇から賜ったと記されています。
『日本書記』など公式の記録には蜂子皇子の行方は記録がありませんが、山形県鶴岡市の由良海岸に皇子が上陸した際に乙女が舞って迎えた「八乙女伝説」があり、これらの民話が取り入れられたものと考えられます。
興味深いことに、蜂子皇子の母であり崇峻天皇妃である小手姫皇后も東北に逃れたとする伝説が福島県に残っているようです。

また、崇峻天皇の妃の小手姫皇后も、事件のあと現在の福島県川俣町に逃れ、そこで養蚕(ようさん)の技術を人々に伝えたという「小手姫伝説」が残っています。
山形県から遠く離れた福島県でこのような伝承が残っているのは、蜂子皇子や小手姫皇后が東北に逃れたのは本当かもしれないと思わされますね。
丁未の乱で敗れた物部氏が秋田県に逃れた伝承などもあることから、古代において敗者は東北に逃れるのはよくあることだったのかもしれません。
小手姫皇后は古代豪族の大伴氏の出自(大伴金村の孫)なので、大伴氏の働きかけで亡命できたのかも。大伴氏と東北の関係はこの先注目していいきます!