謎多き古代の埼玉を妄想してみました。
利根川荒川水系が張り巡らされた平地に4世紀終わりから突如として出現するさきたま古墳の謎は外部から巨大な勢力がこの地に現れたことを考えずにはいられません。
さきたま古墳郡の稲荷山古墳の鉄剣に刻まれた乎獲居臣は大和政府の東国支配に貢献した身狭村主青(むさのあお)ではないかと考えてみました。
身狭村主青(むさのあお)の派遣
23代雄略天皇(5世紀中旬)によって身狭村主青(むさのあお)が大和地方から関東に派遣されて、東国の豪族(笠原氏?)の娘と婚姻し、「乎獲居臣」と名乗った。
中国系渡来人(呉の孫権の末裔)である身狭村主青の一団には、かつて遼東半島で燕王を名乗った公孫氏の末裔も参加していた。そのためさきたま古墳郡には常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)神社が鎮座している。
さきたま古墳にある常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)は利根川下流にある荒木常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)から分霊したとあり、身狭青は武勇に優れた公孫氏を隣国からの防衛線に配置したのだろうか。
身狭村主青(むさのあお)は「ムサノ国」を治めた。ムサノ国の周辺には遠い昔に関東にやってきた豪族の国が複数あった。
10代崇神天皇(3世紀後半)の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこ)の血を引く上毛野の一族、250年±80年に出雲を滅ぼされ逃れて来た天之菩卑能命(あめのほひ)の末裔の出雲族、長野県からやって来た八意思兼神(あめのやごころおもいかねのみこと)の末裔がつくった知々夫国。
出雲族との同盟
まずは利根川水系の下流に位置する出雲族と力を合わせることとした。
出雲族の拠点であった足立郡には武蔵国一宮氷川神社や鷲宮神社が鎮座しており、出雲族の末裔であると社伝が残っている。
男衾郡、大里郡、比企郡、横見郡、入間郡には出雲の神を祀る式内社が残っている。そして埼玉郡にも出雲族である前玉姫(さきたまひめ)を祀る前玉神社が鎮座しているのは偶然ではないだろう。
こうして出雲族との同盟に成功したムサノ国は儀礼に優れた出雲族を初代国造として任命した『古事記』には天之菩卑能命(あめのほひのみこと)の子建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)などの祖であるとされている。
身狭青は大彦命の末裔なのか
稲荷山古墳の鉄剣には「乎獲居臣」は大彦命の末裔であると刻まれている。
大彦命は10代崇神天皇の時代に4道将軍として北陸に派遣されたレジェンドであり、東北地方の豪族の阿部氏の祖先とされている。
ただ、身狭青は中国系渡来人であり祖先が大彦命であるとは考えづらい。
身狭青(むさのあお)が作った奈良県橿原市の牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)にはなぜか大彦命の父である孝元天皇が祀られている。
元は違う神が祀られていたのが明治以降に孝元天皇が祀られたのか、あるいは身狭青が大彦命の血を引く女性を妻に迎えたのだろうか。
後者だとすれば乎獲居臣の父、加差披余(かさはよ)は関東に赴任した際に身狭青を迎えいれた現地の豪族である「笠原」なのではないだろうか。
笠原という地名は埼玉県鴻巣市と宮代町にある。
身狭青が東国に派遣されてから100年後、27代安閑天皇の時代に笠原氏は大和政府と協力して、上毛野氏と同盟を結んだ小杵(おき)を倒して武蔵国造となっている。
古墳時代の武蔵国より
まとめ
もしも雄略天皇の右腕である身狭青が関東にやって来たら…という妄想を膨らませてみた。
江田船山古墳の鉄剣が身狭青(むさのあお)と双璧をなした檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)だったらロマンがあるとは思う。
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