今回は古代はマニア的な観点から『呪術廻戦』両面宿儺(りょうめんすくな)のモデルについてまとめてみたいと思います。
日本書紀に残る両面宿儺との戦い
両面宿儺(りょうめんすくな)という人物に関する記載は『日本書紀』にあります。
16代仁徳天皇の時代(推定4世紀)に飛騨(岐阜県北部)に現れ、天皇が派遣した武振熊命(たけふるくまのみこと)に敗れたとされています。
あべのハルカス美術館開館10周年記念 円空 ―旅して、彫って、祈って―より
上は江戸時代の僧、円空が彫った両面宿儺の像です。『日本書紀』では八本の手足に頭の前後両面に顔を持つという奇怪な姿で描写されています。
仁徳天皇の御代、六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。 名を宿儺(すくな)という。 一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。 頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるが、ひかがみと踵がなかった。 力強く軽捷(けいしょう)で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。 皇命(すめらみこと)に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。 それゆえ和珥臣(わにうじ)の祖、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を遣わしてこれを誅した、とある。
皇命(すめらみこと)に従わず、人民から略奪することを楽しんでいたので、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)が派遣され討伐されたとあり、『呪術廻戦』の両面宿儺の傍若無人な姿と一致します。
両面宿儺は腕が4本あった?
今から1600年前の日本には手が4本ある異形の人間がいたということなのでしょうか。
その答えはNOだと思います。
『日本書紀』や『風土記』の大和政府に従わないに勢力との戦いの記述では、敵側の勢力は手足が長かった、ツノが生ていたなど、人間離れした姿で説明されているのです。王に従わない集団への蔑視や、討伐した人物を英雄視する目的からだとと言われています。
大和政府に従わない各地の豪族の戦いは鬼退治や土蜘蛛退治として後世に語りたがれていったのですね。
両面宿儺を倒した健振熊命とは?
両面宿儺を討伐した健振熊命(たけふるくまのみこと)はどんな人物だったのでしょうか。
記紀には神功皇后の時代の忍熊皇子の反乱の際にも健振熊命が遣わされたとありますが、仁徳天皇の時代とは40〜60年の差があり、どちらの時代の人物なのか不明です。
『日本書紀』には和珥臣(丸邇臣)祖とのみ記されており、系譜の記載はありません。
丹後国一宮 籠神社(京都府宮津市)に伝わる「海部氏系図」では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に「健振熊宿禰」が存在し、その分注では品田天皇(応神天皇)の時に健振熊宿禰が「海部直」を賜り国造として仕えた旨が記載されています。
丹後半島を拠点にしていた海部氏が飛騨に派遣されて両面宿儺と戦ったのでしょうか。出雲国譲り神話で出雲から諏訪に逃れた建御名方命(たけみなかた)を彷彿とさせますね。
英雄として語り継がれる両面宿儺
週末に特別公開している千光寺の「宿儺堂」=7日、岐阜県高山市(四国新聞社より)
『日本書紀』では悪として描かれるのに対して、岐阜県では両面宿儺が毒龍を退治したり、寺院の開いた豪族とする伝承が残されています。
両面宿儺(りょうめんすくな)は飛騨では英雄として祀られるのです。
両面宿儺と仏教
領域展開する時に結ぶ手の形は仏教の「閻魔天印」と呼ばれます。
印相(いんそう)といい仏教では手の形で手話のようにメッセージを伝えているのです。
京都東寺の五大明王像の一つ
上は839年平安時代に作られた大威徳明王の像です。正面の手は「閻魔天印」を結び、水牛にまたがっています。大威徳明王は仏教を守護し仏教の敵を倒す天部という存在です。
大威徳明王がまたがる水牛はインド神話やヒンドゥー教において死の神、ヤマ(閻魔天)を表しています。 伏魔御厨子でも大量の牛の頭骨が出現するのはヤマを意識してるのでしょうか。
大威徳明王像がある京都東寺には巨大な南大門がありますが、どことなく伏魔御厨子に似ていませんか。 東寺創建に関わっているのは真言宗の開祖空海です。
まとめ
・両面宿儺は腕が4本あったわけではなく、中央政府に逆らう勢力を蔑視した表現
・東寺には閻魔天印を結ぶ大威徳明王像があり、南大門は伏魔御厨子に似ている