前回の記事では物部氏の祖先である饒速日(ニギハヤヒ)についてまとめてきました。物部氏は大和政権を支える有力な豪族として活躍していましたが、587年に起きた丁未の乱(ていびのらん)をきっかけに歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
今回の記事では飛鳥時代が始まるきっかけとなった「丁未の乱」の背景について考えてみたいと思います。
- 丁未の乱とは?
- 物部氏の祖 饒速日
- 祭祀系氏族としての物部氏
- 軍事氏族としての物部氏
- 物部氏と対立した蘇我氏とは何者か
- 仏教伝来を巡る物部氏と蘇我氏の戦い
- 物部氏と蘇我氏の抗争
- 物部氏の敗北と飛鳥時代の始まり
- まとめ
丁未の乱とは?
丁未(ていび)の乱は仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏が戦い蘇我氏が勝利した事件です。
厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我氏側で戦いに参加し勝利の御礼として建てたのが大阪の四天王寺と言われています。
丁未の乱で物部氏が敗れた結果、大陸の仏教文化の影響を受けた時代を「飛鳥時代」と呼びます。
※飛鳥時代 (592年〜710年)明治時代に関野貞、岡倉天心によって芸術、建築の分野で区分され始めた。物部氏が倒され崇峻天皇即位からとする場合と、崇峻天皇が崩御して聖徳太子が摂政になった時からとする場合がある。
丁未の乱と飛鳥時代の始まりを深く理解するために物部氏の歴史をざっくりまとめてみました。
物部氏の祖 饒速日
物部氏の祖先の饒速日(にぎはやひ)は、地上に初めて派遣された神である瓊瓊杵尊(ににぎのみみこと)の兄とされる神です。饒速日の天孫降臨の記事参照。
『神武』より
神武天皇の東征神話にも登場し、神武天皇らが大和にやって来た時に、大和を治めていたのがニギハヤヒです。
時代としては紀元前1世紀中旬〜西暦1世紀後半頃ではないかと予想しています。富雄丸山古墳の記事参照。
神武天皇とニギハヤヒは戦いますが、戦いの最中、神武天皇が天照大神の子孫だと知ったニギハヤヒが、神武天皇に大和を譲るというストーリーです。
ニギハヤヒの息子、宇摩志麻治(ウマシマジ)が物部を名乗り出したとされています。宇摩志麻治に関する記事参照。
祭祀系氏族としての物部氏
初期の物部氏は儀式を司る豪族として大和政権を支えていたと考えられます。
物部氏の神社である石上神宮(いそのかみじんぐう)の鎮魂祭は宇摩志麻治が神武天皇の不老長寿を祈ったのが始まりと伝わっています。
祭祀に使う道具を作る技術を持っていたから物部と呼ばれた説もあるようです。物部氏に伝わる祭祀に関する記事参照。
祭祀の道具に加えて鍛治職人として武器も作る事ができたようで、石上神宮(いそのかみじんぐう)は神社であると同時に朝廷の武器庫としての機能を持っていました。
軍事氏族としての物部氏
時が経つにつれて物部氏は祭祀から警察機能も有するようになり、侍を表す「もののふ」の語源となったとも言われています。
26代継体天皇(けいたいてんのう)の代には筑紫国磐井の乱(527年)を治めた物部麁鹿火(もののべのあらかび)が軍事的な地位を確立します。
29代欽明天皇(きんめいてんのう)の代には大連として活躍した物部尾輿(もののべのおこし)が政治的な宿敵の大友金村を排斥に成功し(540年任那 4 県割譲問題)蘇我氏とともに大和政権を牛耳ることに成功します。
(物部氏は6世紀前期に坂東に進出して常陸国譲り信太郡(茨城県)や下総国や香取神宮との関連も指摘されているらしく、この辺りはさらに調べてみたいと思います)
このように6世紀には大和政権の中枢で大きな影響力を持った物部氏でしたが、丁未の乱にて物部守屋(もののべのもりや)が倒されしだいに影響力を失っていきます。
物部氏と対立した蘇我氏とは何者か
物部氏と対立するする蘇我氏ももとは天皇の血を引く豪族です。第8代孝元天皇のひ孫、武内宿禰(たけうちのすくね)の末裔なので、初代神武天皇に関わる物部氏よりも後の世代の天皇の血を引く豪族ということになります。
『記紀』では朝鮮半島における戦いで、武内宿禰の息子達の活躍が多く登場することから外交関係を担当していた氏族である事がわかります。
蘇我稲目(そがのいなめ)の代になると2人の娘を欽明天皇(きんめいてんのう)の妃とすることに成功し、欽明天皇の子、用明天皇は蘇我氏の血を引く初めての天皇となります。
竹内宿禰に関する記事はこちら↓
仏教伝来を巡る物部氏と蘇我氏の戦い
そんな二つの有力氏族の対立が本格化したのが丁未の乱です。「そこには仏教を認めるか否か」が争点になっていたように思います。
当時、東アジア情勢に大きな変化があり、中国で長きにわたって続いていた南北朝を終わらせた隋が統一国家を作ったのでした。隋の初代皇帝文帝は自らを「菩薩戒仏弟子皇帝」と称して、それまでの廃仏政策を改めて仏教による政治を行いました。朝鮮半島を含む周辺諸国、特に大和政権と交流していた百済も仏教がトレンドとなっていたのです。
29代欽明天皇の時代(欽明天皇13年552年)になると百済の聖明王から金の仏像が送られてきます。欽明天皇は東アジア諸国を見習って仏教を導入するべきか、大和政権の中枢にいた物部尾輿と蘇我稲目に意見を求めます。
物部尾輿は日本は古来から神の末裔の国なのに外国の神を崇めたらよろしくないと反対します。祭祀を司ってきた物部氏からしてみれば仏教という異国の神を敬う事は、先祖代々続けてきた氏神信仰が否定され、立場が危うくなりかねないとも考えたのではないでしょうか。その証拠に物部氏の他に中臣氏、大三輪氏といった古来から祭祀を司る豪族が仏教に反対しています。
仏教文化を盛んに取り入れようとしたのが蘇我稲目です。仏教は現在で言うところの宗教的な役割だけでなく、建築技術、医療、漢字、製鉄など最先端の技術を導入できるメリットがありました。
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欽明天皇は蘇我稲目に仏像を授けて礼拝させましたが、間もなく疫病が流行します。物部尾輿と中臣鎌子は異国の神を礼拝したために国神が怒ったのだと主張します。
天皇はこれを同意して聖明王から与えられた仏像は難波の堀江に流されてしまったといいます。
物部氏と蘇我氏の抗争
欽明天皇の後に即位したのが30代敏達天皇です。敏達天皇は28代宣化天皇の娘石姫と欽明天皇の子なので蘇我氏とは距離が近くなく仏教を信じなかったようです。『日本書紀』によると「仏法を信じず、文章や歴史を愛した」と記されています。 また、新羅や百済など、朝鮮半島との交流に力を入れ、高句麗との国交も開始したようです。
講談社まんが日本の歴史より
敏達天皇の時代も蘇我氏と物部氏の政治的な対立は続いていきます。高句麗の僧善信尼(ぜんしんに)が日本で初めて出家した際には、蘇我馬子が大切に保護して寺院を作りました。蘇我馬子が寺院を作る中、疫病が流行した事で物部守屋は日本古来の神の怒りと主張します。敏達天皇が寺院を禁止しましたが、疫病おさまらなかったため、蘇我氏は仏教信仰を許さるという事件も起こっています。敏達天皇は流行していた疫病に感染して亡くなってしまいます。
物部氏の敗北と飛鳥時代の始まり
30代敏達天皇の死後31代用明天皇が即位します。用明天皇は蘇我稲目の娘蘇我堅塩姫(そがのきたしひめ)を母に持ち、蘇我氏の血を引く天皇が誕生した事になります。蘇我氏の影響な用明天皇は天皇として初めて仏教を信仰しています。ちなみに用明天皇は聖徳太子の父です。
蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇の妃としており、蘇我氏の関係性が強くなっていました。
用明天皇の死後蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)(後の崇峻天皇)を次の天皇として推し、物部守屋は欽明天皇と蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)の子である穴穂部皇子を推し対立しました。
こうして始まったのが587年丁未の乱です。穴穂部皇子は暗殺され、物部守屋は敗れて物部氏は影響力を失うこととなります。戦いに勝利した蘇我馬子は即位した32代崇峻天皇の元で仏教に力を入れていきます。蘇我馬子が建てた寺が飛鳥寺、蘇我氏に協力して戦った聖徳太子が593年に四天王寺を建てました。
まとめ
神道派の物部氏が仏教派の蘇我氏に敗れたことで、仏教のみならずシルクロードを通ってササン朝ペルシャやヘレニズムなど大陸の文化が積極的に取り入れられるきっかけとなりました。これを飛鳥時代と呼ぶわけですね。
物部氏は根絶やしにされたわけではないことが、物部氏から出た石上氏がと政府役人として活躍し記録や全国各地に物部系の神社が存続していることからわかります。戦いに勝利した蘇我氏ですが50年後には大化の改新が起こって没落してしまい儚いですね。
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百済王子ハリマは白村江の戦いで敗れた後日本に渡り、日本古来の自然信仰の神々と大陸からやってきた新しい神々(仏) の戦いに巻き込まれていきます。
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