古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きなサラリーマンが全国を旅した発見を書き連ねます。

新潟旅④饒速日と宇摩志麻治の謎

 

新潟旅の下調べをする中で越後国一宮弥彦神社物部氏系の神社であるとわかってきました。

 

例えば石上神宮で行われる鎮魂祭を弥彦神社物部氏神社でも行っているという事実があります。

 

先代旧事本紀』の系図を遡ればそのはずで弥彦神社天香山命物部神社宇摩志麻治は饒速日の子であり異母兄弟であるとされているのです。

 

今回は宇摩志麻治の謎についてまとめてみます。

 

饒速日(にぎはやひ)は彦火明命(ひこほあかりのみこと)と同一人物なのか?

個人的には 丹後に天孫降臨したヒコホアカリ、河内に天孫降臨してニギハヤヒは同一人物ではないと考えます。    

 

同一人物だと主張するのは平安時代前期にかかれた『先代旧事本紀

物部氏によってかかれているので、自分の祖先である饒速日記紀系図に加えたかったのではないでしょうか。  記紀では神武天皇が大和に入る前に、先に大和を治めていた人物とされていますが、系譜は不明で、どこの誰かもわからないので。

 

 同じく平安時代前期にかかれた『姓氏録』は両神を、それぞれ別の天神部と天孫部に分類し、別神であるとしています。

 

物部神社の社伝では饒速日の子宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)、彦火明命の子天香山命が協力して尾張、美濃、越を平定したエピソードがあります。これを元に『先代旧事本紀』では二人は兄弟という設定を作ったのでしょうか。

ただし、全く血縁関係がない赤の他人とも考えられず、同じタイミングで一緒に天孫降臨した事は事実なのではないでしょうか。 親戚くらいのイメージでおさえておいたらよいかもしれません。

 神武天皇の東征の時すでに饒速日は亡くなっており、大将は宇摩志麻遅命だった?    

先代旧事本紀』によると饒速日は宇摩志麻治が生まれる前に死亡しており、記紀に登場するのは二代目饒速日を襲名した宇摩志麻治命となっています。

 

 『古事記』だけでなく、『日本書紀』や『古語拾遺』も宇摩志麻治の事を饒速日と書いています。

先代旧事本紀』だけが、平安初期という早い段階でにあれはウマシマジだった!とカミングアウトしているわけです。    

 

中臣氏は物部氏の配下?  

先代旧事本紀』には饒速日に従って天孫降臨した32氏族が紹介されている。その中の一人が天児屋根(あめのこやね)です。

 

天児屋根は中臣氏の祖先神で天岩戸伝説で祝詞を歌った神です。

 

宇摩志麻治は神武天皇が即位した時に祝詞を歌いましたが、のちに物部氏が軍事氏族になるにつれて、占いや儀式の役割を配下の中臣氏に託したのかもしれません。

刀剣ワールドより

物部大連(最高執政官)が暴落する事件のなった丁未の乱(552年)では、中臣氏は物部側に味方しています。

中臣氏が蘇我氏を倒した乙巳の変(645年)は中臣氏による歴史的な主君であった物部大連の無念をはらす復讐とも思えてきます。

●いつから中臣氏と名乗り出したのか↓

 

饒速日はどこから天孫降臨した?  

饒速日は天磐船に乗って河内に天孫降臨した神話が伝わっていますが、饒速日は北九州からやってきたのではないか?とする説があるようです。

 

【先代旧事本紀】北部九州と近畿における天神本紀の物部の住地 - 天神本紀より    

 

饒速日に従って河内に天孫降臨した集団の中には北部九州と畿内の地名を持ったものが多く、その中には北部九州と畿内の両方に一致する地名があるものも多く見られる」と上記ブログで紹介されていました。    

 

これをもって、北九州から来たのだ!と結論付けるのは時期尚早で、後から物部氏が北九州に勢力を持ち地名に繁栄された可能性もあります。

 例えば磐井の乱(528年)を治めた最大の功労者であった物部麁鹿火の時代に物部氏による九州の部民設置が広範囲に許可されたとも考えられます。  

 

部民制の成立は6世紀に入ってからと考えるのが大勢で、「物部」にあっても例外ではないため、朝鮮、九州外交の成果として物部氏の部民が北九州に設置されたと考えるのが定説のようです。  

 

 どちらも真実で、600年前は祖先の故郷であった北九州を磐井の乱を機に取り返した物部氏という展開も想像すると熱いですね。   

 

●富雄丸山古墳は長髄彦の子孫の墓か?

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