古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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新潟旅②弥彦神社の祭神天香山命と物部氏

前回の記事では『海部氏系図』が正しいと仮定して天香山命の足跡についてまとめました。

 

今回は前回の記事と矛盾する世界、すなわちパラレルワールドとして天香山命についてまとめていきます。

 

彌彦神社の社伝における天香山命

神社の由緒書きには次のように記されています。

 

社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。  

( 御由緒|歴史・由緒|越後一宮 彌彦神社 

 

初代神武天皇を助けた天香山命が第六代孝安天皇の時代まで生きていることになっています。

上は実在が証明されている天皇から逆算して神武天皇の誕生年代を推測したものです。方法はこちら

 

神武天皇BC120-70年

第六代孝安天皇30-170年

と二人の間には100年以上の差があります。

 

 

天香山命が活躍した時代はいつ?

謎を解くヒントが物部氏の祖である宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を祭神として祀る、島根県太田市物部神社の由緒にありました。

 

御祭神宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきやひめみのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。  神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)  その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。  次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源) 

石見国一宮物部神社より

物部神社の社伝では宇摩志麻遅命神武天皇の時代に活躍したこと、天香具山命と宇摩志麻遅命が協力して尾張、美濃、越を平定した事が伝えられているのです。

 

社伝を信じるのならば、天香具山命は神武天皇の時代(BC120-70年)の人物であった事になります。

 

天香山命の名前が世襲されたと考えれば社伝もおかしくない事になりそうです。

天香山命弥彦山へ至る経路は?

神武天皇を助けて大和入りした天香具山命と宇摩志麻遅命はどのルートで越や石見へ辿り着いたのでしょうか。

 

社伝の通り、尾張→美濃→越の順に移動したとすれば大阪湾から海路で尾張三河湾にたどり着き陸路で美濃を経由して越へ向かったのでしょうか。

Googleマップ尾張から金沢までの徒歩経路を検索すると美濃の白山の東側を通るルートがヒットしました。

 

平定した越に残ったのが天香具山命で、さらに石見国まで西へ進んだのが宇摩志麻遅命だったのではないでしょうか。

 

 

 

まとめ

弥彦神社物部神社の社伝を組み合わせると天香山命は神武東征の際に活躍した人物であり、天香山命の名は世襲されていった可能性がある。

物部神社の社伝より天香山命尾張、美濃を経由して越に至り、弥彦山へ辿り着いた可能性がある。