古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きなサラリーマンが全国を旅した発見を書き連ねます。

新潟旅③高倉下と天香山命の謎を追求した!

 

新潟旅の下調べとして弥彦神社の祭神天香山命を調べて深みにハマっている今日この頃です。

 

わかったことを以下にまとめます。

 

天香山命の父の解釈が書物によって異なる。『日本書紀』では天火明(アメノホノアカリ)が瓊瓊杵(ニニギ)の兄、『古事記』では瓊瓊杵(ニニギ)の子となっている。『先代旧事本紀』では天火明と饒速日を同一としており、天香山命宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は異母兄弟となる。

 

●平安初期の書物『先代旧事本紀』によれば紀伊国に住む天香語山命は熊野で神武天皇を助けた高倉下命(たかくるじのみこと)と同一人物。『海部氏系図』では天香具山命と大屋津比賣命の子が高倉下。

 

元伊勢籠神社に伝わる『海部氏系図』によれば天香語山命は丹後に天孫降臨した彦火明命(ヒコホアカリ)の子で、神武天皇を助けたのは天香語山命ではなく、孫の倭宿禰である。

 

弥彦神社の社伝によれば天香山命神武天皇を助けた後、越に派遣され弥彦山を本拠地とした。

 

物部神社の社伝によれば神武天皇を助けた後、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)と天香具山命が越に派遣された。

 

このように書物や社伝によって矛盾が多く、複雑になっています。今回は以下の疑問について考えていきたいと思います。

天香山命と高倉下は同一人物なのか?

謎を解くために高倉下について調べてみることにしました。

 

Wikipediaを使って高倉下が祀られている神社を調べてみたところ、記紀神話で高倉下が神武天皇を熊野に2社、三重県に1社あるようです。

 

・神倉神社(和歌山県新宮市)

・熊野速玉大社(和歌山県新宮市)

・高倉神社(三重県伊賀市

 

気になるのは三重県の高倉神社です。

 

高倉下の子孫が建てた高倉神社

高倉神社は高倉下命の七代の後の子孫である倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)がこの地に移り住んで高倉下命を祖神として祭祀した事を起源とする社と伝えられているそうです。

高倉下が神武天皇と同世代と仮定すると高倉神社の創建は第八代孝元天皇(推定誕生年90-210年)の治世である2世紀初旬〜3世紀中旬の頃でしょうか。

 

先代旧事本紀における倭得玉彦命

倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)は『先代旧事本紀』にも登場します。

 

八世孫・倭得玉彦命(やまとえたまひこのみこと)[または市大稲日命いちのおおいなひのみことという]。 この命は、淡海国の谷上刀婢(たにかみとべ)を妻として、一男をお生みになった。また、伊我臣の祖・大伊賀彦(おおいがひこ)の娘の大伊賀姫(おおいがひめ)を妻として、四男をお生みになった。

先代旧事本紀現代語訳より

 

倭得玉彦命は淡海(滋賀県)と伊賀(三重県)で妻を娶っているので既に熊野に住んでいなかったような感じはします。

 

そもそも『先代旧事本紀』では饒速日の次男天香具山の子孫の殆どが天皇を支えるポジションとして大和におり、熊野に住んだ記録は見当たらず、今回の調査では高倉下が熊野に住んでいたと有力な情報を集めることができませんでした。

熊野地方には高倉神社が多く残っているので、高倉下が熊野の一豪族であったとしてもおかしくはありません。

 

高倉下を天香山命と同一視したのは尾張国造か?

個人的には、尾張国造の祖先が天香山命の孫にあたる天忍人命(あめのおしひとのみこと)であることが関係しているのではないかと予想しています。

第12代景行天皇の時代、天香山命の子孫である乎止与命(おとよのみこと)が尾張国造に任命されました。『国造本紀』では成務天皇の御代に尾張国造に定められたとあります。

Wikipediaより

尾張氏は後に古代天皇家に影響力を持つ氏族です。

ヤマトタケルより

日本武尊(ヤマトタケル)が東征した際に、宮酢媛に草薙剣を預けたことが熱田神宮の始まりとされています。

高倉下を祀る高座結御子神社

熱田神宮の近くの愛知県名古屋市熱田区高蔵町には高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)があり、祭神は高倉下、地名も高蔵町です。

 

高座結御子神社の奥宮高倉神社

高座結御子神社の奥宮が高蔵寺(こうぞうじ)にある高座神社という言い伝えがあるそうです。高倉神社(たかくらじんじゃ)の北側には高座山(たかくらやま)があり高倉下感たっぷりです。

 

高倉神社は高座山麓の五社大名神社に合祀されていました。

 

社伝は明らかでないが、祭神が尾張氏の祖神であることより推して、その創立の古い事が知られる。創立当初の位置は不明である。  明応2年(1493年)再建の棟札があり、大永8年(1528年) 今の地に遷宮されたと伝えられるも、いずれの地からか不詳である。  さらに承応4年(1655年) にも再建されたという。  明治45年(1912年)日吉社さらに大正7年に高蔵社、厳島社が合祀された。昔、熱田神宮の 高倉明神と祀っていたので、高倉地と呼ばれた、又熱田高蔵宮であったとも伝えられる。

春日井市高蔵寺ホームページより

 

熱田神宮の高倉明神を祀っていたので高倉地と呼ばれたとあります。

春日井の民話たかくらさまより

高倉明神(地元どは高倉様と呼ばれる)は昔高座山の鬼を討伐した伝説が残るこの地域の英雄です。

 

尾張氏は高座山を拠点にしていたが、後に熱田に移ったという話もあるようで、この場所に熱田高倉の宮があったということでしょうか?

 

尾張戸神社

高蔵神社の南側にある東谷山の尾張戸(おわりべ)神社には興味深い社伝が伝わっていました。

 

天香語山命(あまのかぐやまのみこと)

天香語山命天火明命の御長子に当たられます。   命は大和国尾張の村をお立ちになって東谷山対岸の高座山にお降りになりましたが、しばしば東谷山との間を往来され、やがて当国ご開拓の神意によって東谷山にお鎮まりになりました。ご登山に当たって、麓の庄内川をお渡りになる折に、常に1頭の白鹿が現れて、命をお乗せしてお渡ししました。現在その伝承地に架けられた橋を「鹿乗橋」、橋下の淵を「鹿乗ヶ淵」と称しています。   命の神意によって開拓されたという「尾張の国」の語源は、奇しくも命の神意のままに「新しく墾り開かれた土地」の意であり、尾張氏の祖神として、国土開発、文化向上の神であります。   

 

社伝には高倉下や高倉明神の話は一切なく、代わりに天香語山命が高倉山に降臨し、尾張国を開拓したとあります。 

 

天香語山命は越国を開拓しながら同時並行で遠く離れた尾張国を開拓したのでしょうか?

 

この謎を解く鍵は尾張戸神社にある古墳にありました。

 

尾張戸神社は古墳の上に作られているので、古墳の築造時期がわかれば、神社の始まりを推測できます。

歴代天皇の誕生年を推測した

考古学的には4世紀前半と考えられており、天香山命の子孫である乎止与命(おとよのみこと)が尾張国造に任命された時代や、日本武尊が活躍した時代と一致します。

 

 

ここから一つの仮説が浮かび上がりました。

乎止与命尾張国造として高倉の地へ派遣された頃、既に高倉山に降り立った高倉下の伝説があり民の尊敬を集めていた。

乎止与命は自身の祖先である天香山命も神武東征で活躍したことをアピールするために、高倉下と同一視した。

 

まとめ

・高倉下と天香山命は同一人物ではないと考える。

・高倉下は尾張天香山命は越の開拓の祖となっている。

・高倉下の子孫が作った高倉神社(三重県)があるが、高倉下と天香山命どちらの子孫なのかは不明。

尾張には多くの高倉下にまつわる伝承が残っているが、4世紀に派遣された尾張国造によって天香山命に上書きされてしまった。