古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

群馬旅:ざっくり群馬②群馬県名の由来

 

前回の記事では群馬県の縄文遺跡の痕跡から群馬県に定住した人々はどこからきたのかを考えてきました。今回は弥生時代に突入します。

 

 

 

 

 

群馬県の県名の由来

群馬県の県名が初めて使われるようになったのは、1871(明治4)年廃藩置県が行われた時です。高崎藩・前橋藩の大部分を含み大郡であった群馬郡を県名とすることがふさわしいと判断されたそうです。

 

 

古代の群馬県毛野国(けのくに)や上野国(こうずけのくに)と呼ばれていましたが、群馬県の中央地域を指す車評(くるまのこおり)が群馬郡(ぐんまのこおり)に変わり、明治時代から群馬県となったようです。

 

群馬県の名前の変遷とともに歴史を見ていきたいと思います。

 

豊城入彦命が治めた毛野国

日本書紀(720年編纂)によると10代崇神天皇(西暦150-250年に誕生?)の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が東国経営を命じられ、上毛野君(かみつけのきみ)、下毛野君(しもつけのきみ)の始祖になったと記されています。

神武天皇は127歳だったのか?より

私は10代崇神天皇の誕生が西暦150-250年と予想してます。3世紀の群馬は毛野国(ケノクニ)という一つの大国だったのかもしれません。崇神天皇の時代はまだ漢字が普及していないと考えると(漢字は6世紀継体天皇の時代に五経博士がもたらす)ケノクニと呼ばれていたのを、後から音に「毛」「野」と漢字を当てはめたのでしょうか。

 

 

ケノクニについて大木紀通氏は縄文人が「クンネ」と呼んだ名残ではないかと予想しています。北海道に訓子府(クンネップ)町とあるように、アイヌ語でクンネとは「黒いところ」を意味します。火山に囲まれた前橋平野を縄文人はクンネと呼び、後から入植した弥生人がクンネ国→ケヌ国と発音したのでしょうか。

 

 

『古代の謎を解く「縄文の言葉」』より

考古学的には2世紀後半から高崎市北部の日高地区に弥生人が住んでいた事が、出土した弥生式土器や稲作跡からわかっています。

日高地区には縄文時代弥生時代にかけての生活跡がある日高遺跡があり、縄文文化を営んでいた集団が途中から稲作を始めた事がわかっています。2世紀頃から村の周りに環濠が作られ、鉄や石の矢尻が出土している事から戦闘に備えた緊張した社会状況がもたらされたと考えられます。豊城入彦命がやってきたのはこの時代でしょうか。   

 

 

豊城入彦命の系譜

毛野国の祖である豊城命の末裔は度々『古事記』『日本書紀』に登場します。

日本書紀』によると神功皇后紀49年条に上毛野君の祖荒田別(あらたわけ)が将軍として伽耶(かや)のトクジュンに外征したとあります。

荒田別は応神15条にも百済へ遣わされ我が国に学問を伝えたワニ博士の来日に貢献した。とも記されており、4世紀に大和政権のもとで活躍した人物である事がわかります。

 

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800〜900年に編纂された『先代旧事本紀』の巻十国造本記の下毛国造の条によると、16代仁徳天皇の時代 (4世紀後半と推定)に毛野国をわけて、主として渡瀬川以西を上毛野(現在の群馬県)東の下毛野(栃木県)としたと記されています。

 

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815年編纂『新撰姓氏録』によると豊城入彦の子孫である上毛野一族が21代雄略天皇(5世紀中旬と推定)に乗輿を献上し、その褒美として車持公(くるまもちのきみ)の姓を賜ったとあります。

 

これを機にこの地域を車郡(くるまのこおり)と呼ぶようになりました。実際に奈良県橿原市(かしはらし)の藤原京(710年平城京の前)跡から出土した木簡から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記されています。

 

 

奈良時代に入るとすぐ、和銅6年(713年)の諸国の風土記編集の勅令により、国・郡・郷名はその土地にあった漢字二文字で表すこととされ、国名「上毛野国(かみつけのくに)」は「上野国(こうずけのくに)」に、郡名「車(くるま)郡」は「群馬(くるま)郡」に改められました。

 

その後群馬(くるま)を江戸時代あたりに「ぐんま」と読まれるようになっていたのではないかたら考えられているそうです。