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さきたま古墳④ヲワケの臣の正体

行田創生RPG 言な絶えそね

過去の記事ではヲワケの臣は雄略天皇がライバルを倒して大王に即位し、勢力を大和から河内に広げていく際に活躍した人物であり、その功績を讃えて鉄剣を作った事を書きました。前回の記事↓

rekitabi.hatenablog.com

 

また朝鮮半島の情勢の変化によって、大和政権の中枢を担っていた渡来人が百済系から新羅系に変わった事で、新天地を求めた百済系渡来人達がヲワケ臣に従いさきたまへやってきたのではないかと予測しました。今回の記事では『日本書紀』での記載をもとにヲワケの臣の正体について考えていきたいと思います。

 

 

古事記に記された武蔵国造の争乱

ヲワケの正体を探る上で重要な資料として『日本書紀』の第27代安閑天皇元年に武蔵国造の争乱に関する記事があります。

 

武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族(うがら)小杵(をき)と、国造を相争いて、使主・小杵、皆名なり。年経(としふ)るに決(さだ)め難し。小杵、性(ひととなり)阻(うぢはや)くして逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。 京に詣でて状を言(まう)す。朝庭臨(つみ)断(さだ)めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅(ころ)す。国造使主、悚(かしこまり)憙(よろこび)懐(こころ)に交(み)ちて 、黙已(もだ)あること能はず。謹みて国家の為に、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)、四處の屯倉(みやけ)を置き奉(たてまつる)る。是年、太歳甲寅(きのえとら)。

 

武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した

 

まとめると、笠原直使主(カサハラノアタイオミ)と小杵(オキ)が争った結果、群馬の豪族子熊(オグマ)に支援を求めたオキが敗れ、朝廷が味方したカサハラノアタイオミが勝利し、武蔵国造となったという内容です。

 

この記事を当てはめてさきたま古墳に埋葬されている人物はカサハラノアタイオミではないかと考えられている人もいます。安閑天皇の時代から見ていきたいと思います。

 

安閑天皇の時代

 

安閑天皇は26代継体天皇の子です。25代武略天皇崩御した事で継承者がいなくなった際に、応神天皇の5世孫である継体天皇が即位することとなりました。27代安閑天皇28代宣化天皇継体天皇が北陸にいた頃に前妻との間に儲けた子です。29代欽明天皇継体天皇と武略天皇の妹との間に生まれました。

百舌鳥古墳群が作られた年数より仁徳天皇の時代が5世紀中頃だと考えると(仮に450年とします)

 

天皇と皇太子の歳の差を仮に20歳と考えた時に、武烈天皇の時代は530年と考えられます。『記紀』によれば武烈天皇は489年に生まれ、507年に崩御したとされており、おおよそ一致します。

 

武烈天皇は18歳で亡くなったので、530年まで存命だったなら48歳と、政治の中心となるに相応しい年齢であったでしょう。

武烈天皇崩御した後に即位した継体天皇の治世な530年代だとすると、継体天皇の子である安閑天皇宣化天皇の代は540-550年代であると予想されます。

 

記紀』では継体天皇は531年に崩御し、安閑天皇は536年、宣化天皇は539年に崩御し、539年〜571年は欽明天皇の治世となり、おおよそ一致します。

 

これらの事から考えると、武蔵国造の争乱が記されたのが安閑天皇の時代であるとするならば、6世紀初旬から6世紀中旬の出来事であると考える事ができます。

 

6世紀初旬〜中旬という時期はさきたま古墳群にある次の古墳の築造年代と一致します。

 

5世紀前半〜中頃 稲荷山古墳

6世紀前半 丸墓山古墳、二子山古墳

6世紀後半 将軍山古墳

7世紀前半 浅間塚古墳

 

すなわち、鉄剣が出土した稲荷山古墳に埋葬されたヲワケの臣の末裔であるカサハラノアタイタオミは丸墓山、二子山、将軍山古墳あたりに埋葬されているのではないかと考えます。

また、さきたま古墳からそれほど遠くない、埼玉県鴻巣市には「笠原」という地名が残っています。その歴史は古く平安時代に編纂された『倭名類聚抄』によれば、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市笠原)が記されており、少なくとも平安時代にはこの辺りは笠原と呼ばれていたことは確かです。

 

南武蔵の古墳群の消滅

 

カサハラノアタイオミが活躍した時代が、丸墓山、二子山、将軍山古墳が造られた時代とするならば、対立した小許(オキ)とは何者だったのでしょうか。

 

この時代を境にして前方後円墳が作られなくなった地域があります。それが多摩川沿岸に4〜5世紀にかけて前方後円墳が築かれた南武蔵地域です。

 

 

6世紀初頭の南武蔵には亀甲山古墳の南側に浅間神社古墳(約七〇メートル)が作られており、この地域に大きな権力を持つ豪族がいた事が予想されます。彼らは上毛野(群馬県)と結びつき、武蔵国造すなわち、武蔵国の覇者を巡る争いをさきたま古墳群を勢力範囲とするカサハラノアタイオミと争ったと考えられます。

この争いに敗れた南武蔵、上毛野では6世紀中旬以降な小規模な前方後円墳しか作られなくなっていくのです。これは反乱に敗れ屯倉が設置されたという『記紀』の記述と一致します。

 

まとめ

 

さきたま古墳群は5世紀に突如として現れた大規模な前方後円墳群であり、大仙古墳との類似点からも大和政権と関わりのある人物が古墳築造技術を持った渡来人を連れて、関東にやってきた事が考えられます。

 

関東にはすでに4〜5世紀より勢力を拡大してきた豪族がおり、中央政府から来たカサハラノアタイオミと対立する事となります。その全面戦争の記録が『記紀』に語り継がれる武蔵国造の争乱であり、その勝者は中央から派遣されたカサハラノアタイオミでした。

 

カサハラノアタイオミは稲荷山古墳から出土した鉄剣によれば、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えてきた人物であり、中央との結びつきが強いために、援軍をもって、南武蔵+上毛野連合群を制圧する事ができたのではないでしょうか。

 

さきたま古墳〜完〜