大阪出張のついでに仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群へ行ってきました!
百舌鳥八幡宮へ参拝
宿泊した北浜駅から電車で移動します。堺市までは電車で40分ほどでした。
百舌鳥駅で降りるつもりが間違えて百舌鳥八幡駅で降りてしまいました。
これも何かの縁だと思って歩いてみることに。
駅から徒歩10分のところに「百舌鳥八幡宮」という神社があるそうです。
百舌鳥八幡宮は29代欽明天皇の時代に作られたとされています。欽明天皇といえば聖徳太子の祖父にあたります。
百舌鳥八幡宮と欽明天皇の関係とは
仏教が初めて日本に伝わったのが欽明天皇の時代です。百済王から仏像を送られた記録があります。
仲哀天皇は14代天皇で日本武尊(やまとたける)の子です。神功皇后との子が15代応神天皇です。
神社によると神功皇后が三韓征討を行った時に祈りを捧げたのがこの土地であり、欽明天皇の夢に八幡大神が現れた事が創建の由来だそうです。この地が万代(モズ)と呼ばれていたことから「百舌鳥八幡宮」となったとあります。
応神天皇は15代天皇なので、29代欽明天皇からみると100年前の人物のはずですが、欽明天皇と応神天皇は関わりが深いのです。
欽明天皇と応神天皇の関係は欽明天皇の父、26代継体天皇まで遡ります。
25代武烈天皇が崩御した時代、皇族の中に天皇の後継者が全くいなくなってしまい、天皇家存続の危機に直面します。
その中で白羽の矢がたったのが、皇族から離れて北陸地方の豪族をしていた袁本杼命(をほどのみこと)後の「継体天皇」です。
袁本杼命(をほどのみこと)は15代応神天皇の五世孫であることから後継者として即位したとされています。
つまり、欽明天皇から見て応神天皇とは、自分が応神天皇の血を受け継いだ、正統な天皇の血筋であるというアイデンティティそのものです。
応神天皇は八幡大菩薩だった?
ちなみに応神天皇といえば、全国にある「八幡宮」に神様として祀られています。京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮が有名です。
元々は大分にある宇佐八幡宮が最初です。宇佐八幡宮もまた欽明天皇の時代に作られたと言われており、欽明天皇の時代に応神天皇信仰が始まったと思われます。
八幡宮に祀られた応神天皇はやがて仏教の影響を受けて「八幡大菩薩」と呼ばれるようになります。八幡大菩薩は源氏の氏神とされたため、武士の間でも流行していき、全国に八幡宮が作られることになるのです。
有名なのは『平家物語』の扇の的で弓の名手那須与一が扇を定めながら「南無八幡大菩薩」に祈りを捧げています。
話を百舌鳥八幡宮に戻しましょう。本殿は瓦屋根で寺院のような外見をしていました。神仏習合ですね。
境内には池があり市杵島神社と水神を祀った神社がありました。
神社の近くには鎮守山塚古墳があります。
直径34m・高か4mの円墳で5世紀中頃の築造。仁徳天皇陵と同時期にあたりますね。
いったい誰が埋葬されているのでしょうか。
百舌鳥八幡宮から応神天皇の陵墓 御廟山古墳へ
仁徳天皇陵へ向かっていきます。途中に御廟山古墳があります。5世紀前半築造の前方後円墳です。
宮内庁により応神天皇の陵墓参考地とされています。時代的にもあってます。
堀は水で満たされており柵の中には入れません。
説明の立て札、遠すぎて見えません。笑
お堀には亀さんがいました。
古墳の斜面に石を発見!!おそらく舗装工事した時のものでしょうか。
公式には古市古墳群にある誉田御廟山古墳が応神天皇陵とされています。誉田御廟山古墳の近くにもやはり、応神天皇が祀られている神社があり、欽明天皇の時代に作られています。応神天皇はどちらに埋葬されているのでしょうか。
まとめ
百舌鳥古墳群は49基の古墳がハッピーセットのように世界遺産に登録されており、とても1日では巡りきれません。
偶然降りた駅で応神天皇の陵墓かもしれない御廟山古墳と巡り合えた事は、導かれた気持ちになりました。
仁徳天皇陵へつづく!
仲哀天皇と神功皇后は大和政権に従わない九州の勢力を平定するために遠征に向かいます。その途中、「九州ではなく朝鮮半島へ行くべし」と神のお告げがあります。仲哀天皇は神のお告げを信じなかったためか亡くなってしまい、神功皇后が朝鮮半島へ出兵する事となります。