古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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百舌鳥古墳群巡り⑤仁徳天皇の活躍

前回の記事では『記紀』より4世紀後半に朝鮮半島との交流が盛んになった応神天皇の時代を見てきました。

 

朝鮮半島への政策が今後ますます重要視される中で、都を大和から河内に移したのが16代仁徳天皇となります。

 

今回の記事ではいよいよ、朝鮮半島との関係を強化するために都を大和から河内へ移していく過程を見ていきたいと思います。

仁徳天皇の即位  

15代応神天皇の第4皇子で生前の名は大鷦鷯尊(おおさぎきのみこと)です。誕生した時にミソサザイが飛んできた来たことに由来します。

 

応神天皇の死後、後継者を決めるため息子達の争いが発生してしまいます。弟の菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)と共に兄の大山守皇子の謀反をおさめ、菟道稚郎子が死ぬと、大鷦鷯尊仁徳天皇として即位します。

仁徳天皇の大阪改造計画

先代の大王は大和地域で政治を行なったのに対して、仁徳天皇は難波の高津宮(大阪府中央区)に都を遷し大阪の礎を作った天皇です。当時の大阪は大阪湾と河内湖に挟まれて上町台地がそびえ立つ土地でした。

上の図は大阪歴史博物館の展示です。縄文時代の大阪は、現在大阪城がある東側まで海でした。

古墳時代になると、淀川、旧大和川が運んだ土砂が少しずつ河内湾に溜まり、数千年の時間をかけて河内湾が淡水化されました。湖は徐々に小さくなり陸地も増えていきました。しかし元湖の底だった場所は標高が低いため、大雨のたびに氾濫してしまう土地でした。

 

そこで、仁徳天皇は川の流れを変える大治水工事を行なったと言われています。河内湖と河内湾を繋ぐための水路を上町台地に堀ら事で河内湖の水を海は流れやすくしたのです。

 

上町台地を東西に横切る堀は現在も大阪市中央区を流れる「大川」として残り、この時の名残で堀江(四ツ橋アメリカ村があるあたり)や茨田堤という地名が残されています。

 

治水工事には多くの労働力が必要であり、暴君だったのかなーと想像してしまいます。しかし『記紀』では名君として称えられているのです。例えば仁徳天皇が高いところから国の様子を確認した時に、民間の釜戸から煙が出ていない事を発見し、嘆き、3年間の税の取り立てを中止、天皇自ら節約生活を送ったと記されています。個人的にはこの時から税というシステムがあった事に驚きです。

朝鮮外交で栄華を極めた葛城氏

(山川出版の高校日本史B教科書より)

仁徳天皇は国力を充実させると、外交でも手腕を発揮します。『宋書倭国伝』には「倭国王讃」と記された人物が仁徳天皇に該当すると考えられています。

 

そして、仁徳天皇朝鮮半島における外交政策で活躍したのが、豪族「葛城氏」であったと考えられます。大陸から渡来人を連れ帰り、最新の技術を持った葛城氏はますます影響力を強め天皇であっても無視する事ができない存在となっていたようです。

 

仁徳天皇葛城襲津彦の娘磐之媛命(いわのひめ)を皇后にします。磐之媛命の子は3人が天皇になり葛城襲津彦は長い期間にわたり外祖父の座を手に入れたのです。

磐之媛命との間に生まれた4人の兄弟のうち墨江を除く、履中天皇反正天皇允恭天皇が即位しています。

 

16代仁徳天皇以降は25代武烈天皇まで葛城氏の女性が天皇の母、もしくは妃としなっていた点からもこの影響力の大きさが伺えます。

 

磐之媛命からみる葛城氏と天皇の関係性

また、『記紀』に記される皇后磐之媛命のエピソードは、まるで仁徳天皇が気を遣わなければならないほどに葛城の権力が強かった事を象徴しているようにも思われます。

 

仁徳天皇磐之媛命が儀式用の柏葉を熊野まで取りに行って留守にしている間に、異母妹の八田皇女(やたのひめみこ)を後宮に連れ込んだ。それを知った八田皇女は激怒。とってきた御綱葉を難波堀江に投げ捨てて、京都に筒城宮(後に継体天皇が都を構える)を構えて暮らし、天皇の使者も拒否。大阪へ戻ることはなかった。

 

皇后が嫉妬深い性格だった事を示すエピソードかあるいは、天皇の立場を持ってしても気を遣わなければならなかった事ほど葛城氏の権力が大きくなっていたのか想像は深まります。

 

両面宿儺の伝説

『呪術廻戦』両面宿儺のモデルになったであろう人物が登場するのが、『日本書紀仁徳天皇65年です。

 

両面宿儺は、飛騨国(現在の岐阜県高山市)を略奪・支配し、土地の人々を苦しめていました。当時の大和王権は難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を向かわせ両面宿儺を退治させ飛騨国の平和を取り戻したとされています。

 

岐阜県関市下之保にある日龍峰寺(にちりゅうぶじ)には、両面宿儺にまつわる伝説が残されています。

 

寺伝によれば、5世紀前半の仁徳天皇の時代、美濃国両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと伝わっています。

 

日本書紀の記載とは異なり、両面宿儺は地元では英雄だった事がわかります。そして興味深いのが、仁徳天皇の在位が記紀(西暦257年 - 西暦399年)よりも考古学的な年代(5世紀中頃)に近いという点です。ただし仏教が初めて伝わったのは29代欽明天皇の時代であることは注意です。

 

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仁徳天皇陵の矛盾

最大の規模を持つ仁徳天皇陵ですが実際は仁徳天皇が埋葬されていない可能性もあることから、教科書では「伝仁徳天皇陵」や「大仙古墳」として扱われています。

宮内庁仁徳天皇の陵墓として定めている理由は『記紀』と『延喜式』の「仁徳・履中・反正と3代続いた大王が全て百舌鳥に陵墓を造営した」記述を参考にしていると思われます。

18代反正天皇陵を百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)

16代仁徳天皇陵を百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)

17代履中天皇陵を百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)

の記述な合わせて北から3つ並ぶ前方後円墳に当てたのです。

 

しかし、考古学的には履中天皇陵→仁徳天皇陵反正天皇陵の順で築造された事が明らかになっており、16代仁徳天皇陵りよも17代履中天皇陵が先に作られた事になり、矛盾が生じてしまっています。

百舌鳥古墳群の中の巨大前方後円墳の中でも最も古い履中天皇陵を仁徳天皇陵に当てる説もあります。個人的には履中天皇陵に仁徳天皇が埋葬されている節を支持しており、次のように考えます。

あくまで築造年代順に当てはめたものです。仁徳天皇天皇陵は百舌鳥地方に作られたので、百舌鳥原中陵まではいいとしても、履中天皇陵が北、反正天皇陵が南となり、『記紀』とは真逆になってしてしまいますね…

 

この説によると履中天皇陵が最も巨大な前方後円墳になるわけですが、『記紀』では履中天皇が即位する際に兄弟間だ皇位継承を巡る内乱が起こっていますので、乱を制した履中天皇の権威を示すために巨大な墳墓を作ったとしてもおかしくないと考えます。

 

まとめ

古代大阪は日本と海外を繋ぐ玄関口でした。人口270万人の都大阪市の礎を作り上げた大王が5世紀に実在したのだと思います。仁徳天皇陵をはじめとした百舌鳥古墳群の謎は発掘調査によって解き明かしていただきたいものです。

 

そして個人的には故郷であるさきたま古墳群の前方後円墳仁徳天皇陵の造形が類似している点にも大変興味を持っており、引き続き古墳時代を調べていきたいと思います。

 

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