宇佐八幡宮信託事件をご存知でしょうか?
奈良時代に宇佐八幡宮の神託によって仏教僧、道教が天皇に即位しようとした事件です。
高校時代日本史で突然出現する「宇佐八幡宮」に困惑した記憶があります。
今よりも神の声や宗教的な儀礼を大切にする文化があったの奈良時代に、氏神を祀る神社が政治的な発言権を持つことは、なんらおかしいことではないように思います。
しかし、天皇の血統が途切れるか否かの大事件に対して、天皇の氏神天照大神を祀る伊勢神宮ではなく宇佐八幡宮の信託な重要視されている点は、不思議な感覚を覚えます。
どうして、宇佐八幡宮の信託が皇室にこれほどの影響力を持ったのでしょうか。
考えていきたいと思います。
宇佐八幡宮信託事件とは
奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件である。(Wikipediaより)
強くなりすぎた仏教勢力から距離を置くために794年に平安京に遷都するきっかけにもなった事件です。
事件の結末としては称徳天皇が真偽を確かめるべく宇佐八幡宮に派遣された和気清麻呂が「道鏡を天皇にしてはならない」との神託を持ち帰り、道鏡の天皇即位が阻止されました。
道教が天皇に即位する事を阻止した和気清麿は万世一系を守った英雄として明治政府が紙幣を作っています。
宇佐八幡宮がなぜ中央政権に影響力を持つのか?
一般的には東大寺の大仏建立の際に宇佐八幡宮が多いに手助けをした事で関係が深まったと考えられています。
宇佐八幡宮の主催神は応神天皇、神功皇后であり皇室の氏神ですが、6世紀に日本にもたらされた仏教の信仰が広がると、応神天皇が八幡菩薩と同一視されるようになります。いわゆる「神仏習合」です。
神道勢力からすれば、仏教政治を目指す聖武天皇に協力する事は、自らの権力が弱まる事を懸念しそうですが、当時の宇佐八幡宮においては神仏習合に舵を切ったというところでしょうか。
神功皇后の三韓征伐
もう一つの説が考えられます。これは非常に大胆な理論になりますが、、
天皇の氏神は伊勢神宮の天照大神ではなく、宇佐八幡宮の応神天皇だったのではないかという説です。
つまり、天照大神から続く万世一系は、14代仲哀天皇までで一度途切れてしまっているという事です。
大正時代に唱えたら治安維持法により逮捕されそうな説ではありますが、詳しく見ていきたいと思います。
14代仲哀天皇といえば日本武尊(やまとたける)の子で神功皇后の夫であり、九州の熊襲征伐のために筑紫へ遠征を行った際に崩御した天皇です。
(住吉神社)
熊襲征伐に際して神功皇后が住吉神社(福岡市博多区)で神がかりを行った際に、住吉大神から「朝鮮へ行くべし」とお告げがありました。これを信じなかった罰で仲哀天皇は命を落としたと言われています。
(戦時中の教科書の神功皇后)
仲哀天皇亡き後残された神功皇后は朝鮮半島へ上陸。戦わずして三韓(新羅、百済、高句麗)を従わせたと言われています。戦時中の教科書ではこの説話を植民地支配の正統性と結びつけて教育を行いました。
応神天皇の父親は誰?
仲哀天皇の死後、朝鮮半島から帰国した神功皇后から生まれたのが15代応神天皇です。朝鮮遠征の時に神功皇后は既に妊娠していたと言うのです。
しかし、『記紀』では仲哀天皇が死去してから十月十日後であるため、仲哀天皇の実子でない事を示していると唱える研究者もいるのです。(※受精から38週で出産)
この矛盾を解く鍵が住吉神社にあります。
『住吉大社神代記』
この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。住吉大神顕現次第 神功皇后ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)時に皇后、天果の神の教に従はずして早く崩ましゝことを傷みたまふ。
住吉大社の社殿では仲哀天皇が崩御した後、神功皇后と住吉大神が結ばれたと伝えられているのです。 宇佐八幡宮にも似たような異伝が伝えられています。
『八幡宇佐宮御託宣集』
「八幡は住吉を父と為し、香椎を母と為す」 「住吉縁起によると、大帯姫は新羅征伐の時、四王寺山に登って祈願した。 大鈴を榊の枝に付けて高く振り、「朝廷の神達、乞ふらくは神威を施し、敵国を降伏せしめたまへ」と云うと、その夜に住吉大明神が形を現し、夫婦と為った。 第三の王子の八幡が妊まれて、後に産まれた。 今の宇佐宮である。」
宇佐八幡宮の社殿では住吉大明神と神功皇后が夫婦となり、八幡(応神天皇)が生まれたとされています。
これらの説が真実であるとするならば、仲哀天皇と応神天皇の間には血縁関係がなく、天照大神から男系で繋がって来た万世一系が否定されてしまう事になってしまいます。
だから応神天皇以降の天皇は血のつながりのない天照大神よりも、応神天皇を氏神として祀ったのではないでしょうか。
天照大神はいつから最高神になったのか?
では、天照大神が天皇の氏神とされたのはいつからなのでしょうか。
天照大神が天皇家の氏神となったのは、40代天武天皇の時代です。天武天皇は八色の姓(やくさのかばね)によって神々を序列化し、天照大神を八百万の神々の最高神として位置づけました。
八色の姓が定められたのが684年ですので、応神天皇の治世から200年間は皇祖神は応神天皇であった可能性があります。
応神天皇以降の天皇は天照大神を皇祖神としていない証拠がない限り、この説はただの推測でしかありません。しかし、先日大阪を訪ねた際に目を疑うような発見をしてしまったのです。
応神天皇よりも1世代後の時代にあたる、5世紀中頃の前方後円墳(仁徳天皇陵)の堀から興味深い出土品があったのでご覧ください。
上は仁徳天皇陵に隣接する堺市博物館に展示されている形象埴輪です。
屋根部分に千木と鰹木がある事から神社の神殿をかたどった埴輪である事がわかります。
上の図のように神社の神殿の構造はお祀りする神が何であるかによって形が異なります。
形象埴輪はどの神殿をかたどっているのでしょうか。
以前の記事では「大社造」だと書かせていただきましたが、神功皇后にまつわる一連の伝承を踏まえてみますと、、住吉造に見えませんか。
天照大神を祀る伊勢神宮の本殿は上記のように「神明造」となります。
5世紀中旬に作られた仁徳天皇陵から「神明造」ではなく「住吉造」の形象埴輪が出土していることは、仁徳天皇の時代には、天照大神よりも応神天皇の父神である「住吉大神」が重要視されていた説を裏付けるものであると考えます。
まとめ
天武天皇の治世までは宇佐八幡宮の権力は天照大神よりも大きく、八色の姓以降は天照大神が日本の最高神とされました。
時は流れて奈良時代には仏教と神道の習合を背景に宇佐八幡宮が勢力を盛り返した結果、伊勢神宮にも勝るとも劣らないほど、大きな発言力を持ったのではないでしょうか。
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672年壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、天皇中心の国家を目指した。日本最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』が編纂された背景を知ることが壬申の乱から天武天皇の政治を深掘りした一冊。
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