古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

古代史(特に縄文、弥生、古墳時代)が大好きです。

カリスマ兄弟 天智&天武

今でこそ日本は一つの国家である事が常識になっていますが、いつから日本はワンチームとして意識されるようになったのでしょうか。

 

そのきっかけは飛鳥時代に大和政権が海外勢力と衝突した事を機に、海外の大きな力に対抗するために一致団結しなければならないと危機感を抱いた事件があったからではないでしょうか。

その出来事こそが「白村江の戦い」です。

 

白村江の戦いとは?

天智2年8月(663年10月)白村江の戦いが発生します。

7世紀の朝鮮半島では東の新羅と西の百済がしのぎを削っていました。当時の大和政権(37代斉明天皇)は百済と友好関係を築いており、百済に援軍を派遣する事に決めたのです。

白村江は現在の錦江河口付近です。ここで百済復興を目指す百済・大和政権連合軍と唐・新羅連合軍の戦いが繰り広げられます。

結果は百済大和軍の敗北となり百済が滅亡。大国唐と新羅に挟み撃ちにされた高句麗668年(天智7年)に滅ぼされ、新羅朝鮮半島を統一します。

 

白村江の戦い敗北の恐怖から水城を設置

唐・新羅に大敗した大和政権は連合軍が破竹の勢いで日本列島にまで上陸してくる事に恐怖したに違いありません。

大野城市ホームページより

持統天皇の後に跡を継いで即位した中大兄皇子(後の38代天智天皇)は九州に唐・新羅の水軍に備えるため664年対馬・九州北部の大宰府には水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築きました。

 

また、人員不足を補うために全国から防人(さきもり)を集め九州北部沿岸に配備しました。

さらに、667年には難波から内陸の近江京(大津宮)へ移しています。大阪湾から水軍によって攻められる事を恐れたのでしょう。天智天皇は671年にこの世を去ります。

 

天智天皇の後継者争い 壬申の乱が発生

天智天皇の死後、後継者を巡る争いが起こります。672年天智天皇の跡を継いだ息子(39代弘文天皇)と天智天皇の弟大海人皇子の戦い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子が勝利します。

 

 

天武天皇による天皇中心の政治

40代天武天皇として即位した大海人皇子は大和政権を中心として日本という中央集権国家を作ろうとした最初の人物ではないかと思われます。

天武天皇は大和政権とそれを支える豪族の身分をはっきりと明記するために八色の姓を制定しました。応神天皇の子孫、継体天皇の子孫など天皇に近い血筋の豪族は高い位(真人)に位置付けられ、それよりも以前の天皇の子孫や天孫の後裔とする豪族達はその下の位(朝臣宿禰)に位置付けられました。

 

このことから、天武天皇の時代は応神天皇以降の天皇の血筋が重んじられていた事がわかります。大化の改新時に中臣鎌足が政府の下級役人だった事にも納得できます。(中臣氏の祖先は天照大神の時代に活躍する天児屋命、武甕槌)

 

応神天皇が重視される理由についてはこちらの記事をご覧ください↓

rekitabi.hatenablog.com

 

中臣氏の祖神の武甕槌に関する記事はこちら↓

rekitabi.hatenablog.com

 

 

また、天武天皇は中国の天帝にならって大和政権の頂点に君臨する称号として「天皇」を初めて名乗ったとする説が有力です。

 

 

天武天皇は日本初の都城である藤原京を飛鳥の西北部に建設を始めます。

 

天武天皇の妻41代持統天皇の時代に完成した藤原京は710年平城京に遷都するまで持統、文武、元明天皇の3代の16年間にわたって都でした。

 

海外勢力との衝突、緊張感の高まりによって、日本列島の人を集めて戦いに備える必要が生まれたことが、天皇に権力を集中させる国家の成立へと繋がった事がわかりました。その中心となったのは2人の偉大な兄弟の活躍があったという事ですね。

 

 

 

 

 

 

天武天皇が作った八色の姓に関する記事は↓

白村江の戦いの水軍はどこから集めたのか?