古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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百舌鳥古墳群巡り③神功皇后と朝鮮半島との交流の始まり

前回の記事では百舌鳥古墳群最大の仁徳天皇陵堺市博物館の展示品を見てきました。

 

なぜ堺にこれだけ多くの古墳を作ったのでしょうか、当時の状況を『記紀』から見ていきたいと思います。

 

なぜ堺に巨大古墳を作ったのか?

海外から来た渡来人に日本の国力を見せつけるために大陸からの玄関口である大阪に巨大な前方後円墳を作ったという説があります。

当時の日本の首都は大和(奈良)です。海外からやってきた人々は大阪湾から大和川を通って奈良を目指します。大阪湾に到着した渡来人は海上の船の上から巨大古墳を見て驚いたことでしょう。

上は百舌鳥古墳群ビジターセンター展示を改変したものです。現在は大阪湾から大和を東西に繋ぐように大和川が流れています。

上は江戸時代までの大和川の様子です。かつての大和川は北へ流れて大阪城北側の淀川に合流して大阪湾へ流れていました。1704年に付け替え工事により今の大和川が形成されます。

 

飛鳥時代遣隋使の帰国と共にきた裴世清(ハイセイセイ)の記録からは、大和川通って奈良へ移動したとあり、大和川を通る事が当時の主要なルートであったことがわかります。

 

大和川を遡って大和へ向かう途中にも巨大な古墳がある事に気がついたことでしょう。

それが百舌鳥古墳群の東方10kmにある古市古墳群です。上は旧大和川を青く図字した堺市博物館の展示です。

上は現在の古市古墳群大和川の位置です。時代的には百舌鳥古墳群の後に作られる古市古墳群ですが、旧大和川の近くに造られています。

 

つまり、5世紀の大王は海外からやってきた使者や渡来人に対して国力を誇示するために、大阪湾から見える百舌鳥地域に巨大な古墳を作り、6世紀の大王もまた、大和へ向かう大和川から見える古市地域に巨大な古墳を作ったことがわかります。

 

それでは、なぜこの頃の大王達は海外を意識し始めたのか、『記紀』に注目していきましょう。

 

大和政権と朝鮮半島との交流の始まりは神功皇后か?

(天日矛と神功皇后:女系図でみる日本争乱史より)

記紀には度々朝鮮半島からきた渡来人の記事が登場します。最も古いのは『日本書紀』11代垂仁天皇の時代に新羅(しらぎ)から日本にやってきた天日矛(あめのひぼこ)という神です。天日矛は後に但馬の国の豪族と結婚して子孫は「神功皇后」です。

 

本格的に朝鮮半島と交流し始めるのは、14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后(じんぐうこうごう)の時代からです。

 

仲哀天皇神功皇后は大和政権に従わない九州の熊襲を倒すために大和から船で九州へ向かいます。九州に上陸した頃、神功皇后は「熊襲討伐よりも朝鮮半島へ行くべし」神のお告げを受けます。

 

仲哀天皇は「せっかく九州にきたのに…」と神の言葉を信じなかった結果か、不運な死を遂げてしまいます。仲哀天皇を失った神功皇后は兵を率いて朝鮮半島へ渡り、3つの国をあっという間に平定すると大和への忠誠を誓わせたといわれています。

(神功皇后の遠征ルート:古事記の真実より)

しかも神功皇后はこの頃お腹に応神天皇を身籠もっており、朝鮮半島への遠征の途中に生まれては大変だと、お腹に紐で石を縛り付けて出産を遅らせたと言います。朝鮮半島から帰国後、福岡県の宇美で応神天皇を出産したとされています。

 

(神功皇后の紙幣)

この逸話が全て歴史に忠実かと言われれば、疑問は残りますが、神功皇后が訪れた伝承が残る場所は大阪や福岡など各地に残っているのが面白いです。

神功皇后応神天皇の母で仁徳天皇の祖母に当たります。仁徳天皇陵の作られた年代から遡ると4世紀後半の人物と考えられます。

 

神功皇后朝鮮出兵が全くの嘘とも考えられないのが、4世紀後半に朝鮮側の記録に興味深い記載があるからなんです。

上は中国の吉林省で出土した『好太王碑』と呼ばれる石に刻まれた歴史書です。414年に高句麗好太王(広開土王)によって記されました。好太王碑には当時の朝鮮半島と日本の関係が次のように記載されています。

 

百済新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した。

 

4世紀後半に倭が海を渡り、朝鮮半島百済に援軍を送っていた事が記されています。当時の日本は朝鮮半島に軍を派遣する事があり、それを神功皇后による成果と記したのが『記紀』なのではないでしょうか。

朝鮮外交で力を持った豪族「葛城氏」

記紀』では神功皇后が活躍した時代に勢力を伸ばした豪族の存在が登場します。それが朝鮮半島で活躍した「葛城氏」です。

 

(竹内宿禰の紙幣)

葛城氏の祖「葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)」は竹内宿禰(たけのうちのすくね)の息子です。竹内宿禰は8代孝元天皇の孫にあたる皇族で、14代仲哀天皇神功皇后に従って活躍します。後の時代に活躍する事になる「蘇我氏」も竹内宿禰の子孫にあたります。

 

竹内宿禰の子葛城襲津彦に関する『記紀』での記載を見ていきましょう。

 

古事記神功皇后5年

葛城襲津彦は人質を新羅へ送還に付き添った。新羅の使者が藁人形で欺いて人質を新羅へ逃亡させた。それを知った葛城襲津彦新羅の使者を焼き殺し、新羅のラノツ(釜山の南側)に停泊してサワラノサシを落として帰国した。この時の人質が今の桑原、サビ、高宮、忍海の漢人の始祖である。

 

古事記神功皇后62年

新羅朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して攻撃させた。百済記にも同様の記載あり、壬午(382年)に新羅倭国朝貢しなかったので、倭国はサチヒコを派遣して討伐した。白髪は美人を使ったところサチヒコは命令と反対に加羅を攻撃。加羅王は百済に逃げてきた。加羅王は倭王に報告すると天皇は怒り軍勢を派遣して加羅を回復させた。サチヒコは天皇の怒りを知って帰国せず、岩穴に入って亡くなった。

 

以上の通り4世紀後半の神功皇后の時代に葛城襲津彦が活躍した事が記されています。葛城襲津彦応神天皇の時代にも活躍する他、娘を仁徳天皇と結婚させ、履中天皇の祖父(外戚)となる人物ですので次の記事で紹介します。

 

まとめ

応神天皇までの歴代の天皇は大和平野(奈良県)に都を置いて政治の中心としていました。応神天皇の母神功皇后の時代から朝鮮半島では争いが激化し、日本は朝鮮半島諸国に援軍を出す事で大陸の文化を取り入れていたと考えられます。

 

朝鮮半島との交流が盛んになる5世紀にはいよいよ都を大和(奈良)から河内(大阪)へ移す時代に突入します。

 

次回へ続く!

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