古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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百舌鳥古墳群巡り②仁徳天皇陵で大発見

百舌鳥古墳群巡り第二弾です。

前回の記事では応神天皇陵参考地である御廟山古墳について記載しました。築造された年代や近くに応神天皇を祀る神社があったりと、応神天皇と何らかの関わりがあった土地であった事が推測されます。

 

今回はいよいよ百舌鳥古墳群で最大の前方後円墳仁徳天皇陵」の旅行記となります。

御廟山古墳から徒歩で仁徳天皇陵を目指す

御廟山古墳から歩く事5分で百舌鳥駅に到着しました。駅の東側に御廟山古墳、西側に仁徳天皇陵を有する贅沢な駅です。

駅前(西口)には早速古墳がある!

長塚古墳は5世紀中頃〜後半に築造された前方後円墳です。後円部よりも前方部が大きいスタイルからも仁徳天皇陵よりも新しい時代のものと推定されるようです。仁徳天皇の孫の雄略天皇の時代あたりの豪族が作ったのでしょうか。

古墳のフェンスギリギリの土地がレンタルサイクル駐輪場になってました…駅前ですので土地を有効活用するためには仕方ないのですが古墳好きにとっては悲しいですね、、

駅前にもう一つ古墳が!

収塚古墳は仁徳天皇陵の陪塚(バイチョウ)といってお供のように一緒に作られる古墳です。5世紀中頃に築造。

広い!!

 

百舌鳥古墳群ビジターセンターのレビュー

ビジターセンターのシアターで上映されている映画で上空から百舌鳥古墳群を見られます。

百舌鳥古墳群古市古墳群を併せて49基の古墳が世界遺産に登録されています。

古市古墳群百舌鳥古墳群の東方10㎞にあり、応神天皇陵、安閑天皇陵、雄略天皇陵があります。

 

大仙古墳(伝仁徳天皇陵)を参拝

ビジターセンターを出て仁徳天皇陵の正面へ。

明治時代から宮内庁に整備されているので中に入る事はできません。

 

16代仁徳天皇の陵墓と伝えられていますが、言い伝えであって実際埋葬されている人物は不明です。最近の教科書では土地の地名を取って「大仙古墳」と変更されています。

 

 

百舌鳥古墳群の埋蔵品は堺市博物館で見学

古墳から徒歩3分の堺市博物館へ。

 

展示は古墳の時代が古い順に掲載されているのでわかりやすいです。印象に残った展示を紹介します。

 

4世紀後半

百舌鳥古墳群に古墳が作られ始めたのは4世紀後半です。4世紀末築造の大塚山古墳から多数の鉄製品が出土しており、この頃渡来人によって多くの鉄がもたらされた事がわかります。なぜ渡来人は日本へやってきたのでしょうか。

 

3世紀末に後漢が滅亡すると後漢の圧力から解放された朝鮮半島には3つの国が起こりました。高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ)です。後漢楽浪郡を倒し北の満州を支配した高句麗朝鮮半島南部を攻撃するようになります。4世紀末には百済の都市を滅ぼした事が『広開土王碑』に記されています。百済高句麗の脅威に対抗するために日本と友好関係を結ぼうとしました。その結果、鉄、馬、釜、漢字などの日本になかった技術が伝わってきたのです。

 

5世紀前半

5世紀初頭の古墳からは金メッキのベルトが出土しています。履中天皇陵とありますが、履中天皇は17代で仁徳天皇の子ですので築造された時代と矛盾します。いったい誰が埋葬されているのでしょうか。

5世紀前半に作られた御廟山古墳前回の記事で紹介しました。ここから出土した「囲形埴輪・家形埴輪」を見てびっくりしました。

祭壇をかたどった家から当時の建築物の様子がわからのですが、、屋根の形に注目ください。

この屋根の形…!!

どう見ても千木(チギ)と鰹木(カツオギ)ですよね!!

そしてこの建物の入り口は屋根の装飾に対して平行に作られています。

これは「大社造」という出雲大社など出雲神を祀る神社に多い建築スタイルです。

 

これはやばい…神社好きは震えるのではないでしょうか。

 

なぜなら10代崇神天皇、11代垂仁天皇の時代から天皇氏神は「天照大神」と言われているのです。

 

天照大神が祀られている神社といえば、「伊勢神宮」ですよね…

 

伊勢神宮をはじめ天照大神を祀る神社の多くは「神明造」なんですよ。

 

これはすなわち、5世紀初頭の大和政権が儀式を行う際に使用した建物は「大社造」だった可能性を示唆する大発見だと思います。『記紀』では伊勢神宮が作られたのが11代垂仁天皇の時です。仁徳天皇は16代ですので、およそ100年前には既に天照が祀られていたはずなのです。

 

21代雄略天皇の時に伊勢神宮が『記紀』に再び登場します。雄略天皇の夢に天照大神が現れたので、外宮に豊受大神を祀ったと言うのです。ひょっとするとこの辺りから出雲系よりも天照系のパワーが強くなったのかな、なんて想像するとワクワクが止まりません!

 

出雲造ではなく住吉造だった?!別の考察はこちら

rekitabi.hatenablog.com

 

 

5世紀中頃

5世紀中頃になると日本で最も巨大な前方後円墳である「仁徳天皇陵」が作られます。仁徳天皇陵の堀からは馬をかたどった埴輪が出てきています。

上は自分の地元さきたま古墳群(埼玉県行田市)で出土した馬埴輪です。比べると仁徳天皇陵の方が造形がリアルで、大きさも実物の馬に近いように思います。

 

さきたま古墳群が作られるのは5世中頃〜6世紀で少し後の時代となります。埴輪の原型は仁徳天皇陵で出土したような実物に忠実に作っていたものだったが①後に簡略化されたあるいは②芸術性を高めていったなどが考えられます。

同じく仁徳天皇陵の堀から人型埴輪が出土しています。よくみると鼻が高く表現されており、眉間の膨らみを作ってあるなど他地域の埴輪よりもクオリティが高い(実物に近い)ように思います。

仁徳天皇陵宮内庁管轄のため発掘調査が許されていません。明治4年に前方部が土砂崩れを起こして石棺が顕になった事があったようで、その時に寸法や石室の様子をまとめた書物から復元されたのが上です。

石室の中には金メッキ加工された銅製の鎧と兜があり、鏡や勾玉などは記載されていなかったそうです。朝鮮半島との交流が盛んになり、祭祀から武力で国を治める時代に変わったのでしょうか。ただこの石室は前方部の中心から出てきたわけではないので、大王本人ではなく大王を守るボディガードが埋葬されている可能性もありますね。

 

5世紀後半

5世紀後半の反正天皇陵、ミサンザイ古墳を最後にして百舌鳥古墳群に大型前方後円墳は作られなくなります。反正天皇の弟で次代の允恭天皇陵は10㎞東の古市古墳群にあるとされています。

允恭天皇の子安康天皇の陵墓は奈良に、弟の雄略天皇と子の清寧天皇陵墓は古市古墳群にあります。顕宗天皇仁賢天皇武烈天皇の陵墓は奈良県の西部とされています。

 

その他の展示①須恵器

堺市の南部に4世紀~9世紀にかけて須恵器を焼いた窯跡が出ています。須恵器の特徴は青白くて土の色をしていない事。焼いている途中釜戸に蓋をして酸素を遮断する事で、酸化させないことでこのような色になるそうです。

窯を使った焼き物の技術は全国的に広がっていった事がわかっています。上は埼玉県さきたま古墳で出土した須恵器です。

やがて焼き物の技術は陶芸品だけでなく、瓦にも応用されていきます。6世紀仏教伝来によって仏教建築とともに瓦がもたらされたためです。

 

その他の展示②:勾玉

縄文時代から大切にされてきた勾玉。縄文時代ではヒスイ製でした。日本でヒスイは新潟県糸魚川でしか取れません。4世紀末から作られたの百舌鳥古墳群にはヒスイ製の勾玉はほとんど出土していないそうです。

 

ヒスイ産地の情報が途絶えてしまったのか。神功皇后応神天皇で王朝交代があったのでは…?と疑ってしまいたくなります。ヒスイの勾玉を使わなくなった時期についてもさらに調べていきます。

 

まとめ

大社造の家形埴輪には驚きました。さきたま古墳と比べると埴輪による動物の再現性が高く、もっと古い時代の古墳とも比べてみたいです。堺市博物館に来なければ古墳時代を語る事はできないと思えるほど重要な展示の数々でした。親切丁寧に案内してくださったボランティアガイドの方にはこの場を借りてお礼申し上げますm(__)m

 

 

つづく

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