前回の記事では『記紀』より4世紀後半に朝鮮半島との交流が始まった背景を見てきました。
今回の記事ではさらに朝鮮半島との交流が盛んになった応神天皇の時代を『記紀』から見ていきたいと思います。
神功皇后の帰国と謀反
前回の記事で朝鮮を平定して戻ってきた神功皇后は筑紫の宇美で応神天皇を出産します。安心して大和へ戻ろうと思いきや、なにやら謀反の噂があるではありませんか。
仲哀天皇の皇子の麛坂皇子と忍熊皇子が応神天皇を亡き者にしようと企んでいるというのです。そこで、神功皇后は家臣の竹内宿禰と武振熊命に命じて、喪船で応神天皇が崩御したと見せかけて麛坂皇子と忍熊皇子に奇襲をかけたりして闘いに勝利します。
竹内宿禰と一緒に派遣された武振熊命は仁徳天皇の時代に両面宿儺と戦ったとされています。
応神天皇の即位
生前の名前は誉田別命ホンダワケノミコト。15代応神天皇は14代仲哀天皇と神功皇后の子です。応神天皇は大陸の文化を積極的に取り入れた事で有名です。
『記紀』によれば石上神宮の七枝刀や百済から阿直岐、和邇ら学者が招かれ漢字がもたらされたのが応神天皇の時代とされています。
(黒死牟:鬼滅の刃より)
仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后に迎え、仁徳天皇が生まれます。仲姫命の父は景行天皇の孫、母は尾張国造の娘である事は、麛坂皇子と忍熊皇子との戦いの際に尾張国造が神功皇后に味方した事も関係がありそうです。
応神天皇は皇太子として菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を指名して崩御しますが、病のために亡くなり、仁徳天皇が即位する事となります。
応神天皇の朝鮮外交
応神天皇の時代には朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて大陸の文化を伝えます。後に大和で有力な豪族となる秦氏や東漢氏の祖先もこの頃やってきたと言われています。
秦氏のルーツである弓月君は百済から来日したと言われています。葛城襲津彦が来日を手助けするも上手くいかず、葛城襲津彦の兄弟達が派遣される内容です。
百済から弓月君が120人を率いて来たが新羅の妨害で加羅にとどまっていると報告あり。そこで葛城ソツビコを派遣したが3年経っても帰国しなかった。
平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に兵を授けて加羅へ派遣。新羅国境まで進軍すると新羅王は恐れて妨害をやめたので弓月の民を率いて葛城襲津彦とともに帰国した。
平群都久宿禰、的戸田宿禰は武内宿禰の子であり、葛城襲津彦とは異母兄弟にあたります。
『日本書紀』応神3年
百済の辰斯王(しんしおう)が即位したが、貴国(百済が倭を敬った呼び方)の天皇に礼を失う事があった。紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、都久宿禰が派遣され無礼を叱責した。百済国は辰斯王を殺して謝罪して、紀角宿禰らは阿花(あか)を王に立てて帰国した。
この文章は日本を貴国と呼ぶことから『百済記』を引用したと考えられています。1145年に高麗国で編纂された『三国史記』によると百済王辰斯王は384年に即位。次の阿花王は392年即位したとあります。『好太王碑』の391年に倭国が百済、新羅に侵入した記事とも一致する記事です。
応神天皇の陵墓
応神天皇の陵墓は大阪府羽曳野市誉田にある誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)と言われています。5世紀初頭に作られた前方後円墳で大きさは仁徳天皇陵に次ぐ2番目の大きさです。
『日本書紀』天皇に無礼な言動をした辰斯王の話が4世紀後半である事を考えると、考古学的にも応神天皇の時代と一致します。
仁徳天皇陵が作られたのか5世紀中旬ですので、作られた当時は日本で最も大きな前方後円墳だった事でしょう。
旧大和川流域に作られていることから、河内湾から大和へ船で向かう際には、巨大な誉田御廟山古墳を右手に拝みながら船を進めていく事になりますね。
前の記事紹介した百舌鳥古墳群にある「御廟山古墳」も応神天皇陵と伝えられており、築造は5世紀初頭と時代的に一致します。
古墳の規模から考えると誉田御廟山古墳が応神天皇陵であるように思えますが、いったいどちらに埋葬されているのか、謎は深まるばかりです。
源氏の氏神となった応神天皇
平安時代になると天皇の末裔である源氏を棟梁とした武士団が形成され、源氏の氏神として「八幡菩薩」が信仰されるようになります。
『平家物語』屋島の戦いで那須与一が扇の的に狙いを定めた際に「南無八幡菩薩…」と祈りを捧げてから矢を放つ場面は有名ですよね。
この八幡菩薩は応神天皇と同一視されているのですが、応神天皇が菩薩に? 源氏となんの関係があるの?と疑問がいっぱいです。
応神天皇と八幡菩薩が同一視されるのは平安時代の「神仏習合」の影響であると考えられます。
神仏習合とは、大陸からもたらされた新しい神である「仏」と古来から日本で信仰されてきた「八百万の神々」の立ち位置をはっきりさせるために、仏と神道の神を合体させた事をいいます。
応神天皇の場合は大分県の宇佐神宮や京都の石清水八幡宮において祭神して祀られていましたが、仏教が伝わると「応神天皇とは八幡菩薩が人間の姿となった地上に現れた」という教えが広まった結果、応神天皇=八幡菩薩となっていきました。
源氏の氏神となったのは前九年の役、後三年の役で活躍した源頼義、源義家の時代です。
(京都 石清水八幡宮)
源頼義は京都の石清水八幡宮に参拝した時に、霊剣を賜る夢を見て、その時に息子の源義家が生まれたと言われています。源義家は元服の儀式を石清水八幡宮で行ったことから「八幡太郎」と名乗っています。
源頼義の祖父である源頼信は河内守に任命された際に、領内に応神天皇陵がある事に縁を感じ、「応神天皇は源氏の氏神である」と正式発表したのです。源頼信は河内源氏の祖です。
(鎌倉 鶴岡八幡宮)
源頼義は前九年の役の後に石清水八幡宮への感謝の気持ちを込めて鎌倉に鶴岡八幡宮を作っています。後に鎌倉幕府を開く源頼朝も鶴岡八幡宮を信仰した事で配下の武士達もこぞって八幡菩薩を信仰するようになっていきます。
応神天皇、神功皇后の三韓征討伝説もあいまって武神として参加されるようになった事で全国で八幡宮が作られていきました。現在でも八幡宮や八幡様が多いのはこのためです。
まとめ
応神天皇の時代は朝鮮半島から様々な文化が伝えられた時代といわれています。その背景には高句麗との戦いで疲弊した百済を援助するため、大和政権が兵を送ったり、時には百済の内政にまで干渉していた可能性がある事が『記紀』から読み取る事ができました。
朝鮮半島への政策が今後ますます重要視される中で、都を大和から河内に移したのが次代の仁徳天皇となります。
仁徳天皇に関する記事は次回!!
- 価格: 902 円
- 楽天で詳細を見る
葛城氏の勢力範囲、婚姻関係、記紀から読み解いた一冊。
- 価格: 4136 円
- 楽天で詳細を見る