前回の記事で日本の歴史書に残る新潟の最古の記録は神武東征で活躍した天香山命(天香具山命)だとまとめました。[過去の記事参照]
天香山命の軌跡を辿るために新潟へ行ってきました!!
古津八幡山遺跡とは?
新潟の古代遺跡で気になるのが「古津八幡山遺跡」です。
史跡古津八幡山弥生の丘展示館より
古津八幡山遺跡は新潟県新潟市秋葉区古津、金津および蒲ヶ沢にまたがる遺跡で、新潟市の南側、信濃川と阿賀野川に挟まれた新潟平野に位置しています。
古津八幡山遺跡は弥生時代後期(紀元前〜250年頃)の「高地性環濠集落」です。特徴は稲作に適した平野ではなくわざわざ標高50m山の上に集落を作っている点です。
「高地性環濠集落」とは弥生時代に稲作とともに大陸からもたらされた新しいタイプの集落で、村の周りに掘られた深い堀や木の柵、物見櫓など、戦争に備えていることが特徴です。
縄文時代には戦争の後はほとんど見つかっていないことから、環濠集落があることは戦争経験を持つ集団が大陸からやってきた証拠になります。
史跡古津八幡山弥生の丘展示館より
日本で環濠集落が始まるのは紀元前5-4世紀頃の九州、畿内なのです。大陸から九州、畿内に移り住んだ末裔か、あるいは大陸から直接新潟にやってきた集団かその末裔が作った遺跡ということになります。
古津山八幡山遺跡の環濠集落を作ったのは誰なのか?日本神話や新潟の伝承をもとに考察してみます。
古津八幡山遺跡は天香山命が作った?
史跡古津八幡山弥生の丘展示館より
古津八幡山遺跡の環濠集落には方形周溝墓(四角く盛り土をした墓)があり、鉄剣が出土していることから集落の有力者が埋葬されていると考えられています。
史跡古津八幡山弥生の丘展示館より
弥生時代の鉄はかなり貴重です。鉄を作る技術は大陸からきた一部の渡来人しか持っていないので。大陸から持ってきたものか、それを再利用して作ったものと思われます。
弥彦山に天孫降臨(海を渡って日本列島にたどり継着いた)した天香山命(あめのかぐやまのみこと)がきたのでは無いかと期待が高まります。
さて、この鉄剣ですが弥生時代後期(紀元前〜250年頃)と推定されており、初代神武天皇〜第10代崇神天皇の時代と考えています。[実在する天皇から系図を用いて1世代20-30歳として作成]
『日本書紀』『古事記』には天香山命は初代神武天皇を助けたとあり、一致するのですが200年も幅があるので断定はできませんね…
もっと鉄剣の正確な年代がわかればよいのですが…
→史跡古津八幡山弥生の丘展示館の学芸員の方に問い合わせてみたところ、鉄剣の年代は測定していないとの事でした。鉄剣と一緒に出土した土器の特徴から弥生時代後期の前半(紀元100年いかないくらい)との事…天香山命の時代と一致してしまいました。
古津八幡山遺跡と『魏志倭人伝』の倭国大乱
古津八幡山遺跡に高地性環濠集落があった弥生時代後期(紀元前〜250年頃)の日本は戦乱の世だったと考えられています。
『魏志』倭人伝によれば、2世紀後半の日本では「倭国大乱」があったと記しています。[倭国大乱に関する記事]
大陸からやってきた異なる民族をルーツに持つ集団間で争いがあったのでしょう。
高地性環濠集落は古墳時代になると作られなくなるのですが、これは戦争する必要のない社会に移ったためだと考えられます。
この傾向は古津八幡山遺跡も例外でなく、高地にあった集落は使われなくなり、水田にアクセスが良い平地に移動したようです。
古津八幡山遺跡と大彦命
古津八幡山遺跡では二つの特徴的な古墳が見つかっています。
それまでの墓は四角い方形周溝墓(鉄剣出土)だったが、村が終わる直前の墓は前方後方形周溝墓になり、集落が移動した後の古墳時代前期になっても、墓は先祖と同じ場所(丘の上)につくったようです。
前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、東日本の前期古墳に多く存在する形です。展示では福島県会津地方との関連が指摘されていました。
会津といえば、第10代崇神天皇の命で派遣された四道将軍の大彦命(おおひこのみこと)と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した場所と『古事記』にある場所ではないですか!
長くなりそうなので、古津八幡山古墳と会津の関係は次回まとめたいと思います。
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