中臣氏といえば藤原氏の源流であり、日本史史上最も栄華に満ちた一族です。今回は藤原氏の源流である中臣氏についてまとめていきます。
中臣氏の始まり
中臣氏といえば大化の改新で活躍した中臣鎌足が有名ですが、中臣氏の歴史を遥か昔の神話の時代まで遡ってみたいと思います。
コトバンクより
中臣の氏名を始めて名乗ったのは29代欽明天皇の時代に、欽明天皇が常盤大連(ときわのおおむらじ)に中臣氏を与えたのが始まりとされています。
欽明天皇といえば6世紀頃の天皇で、百済から金の仏像をもらったことで有名なお方です。この頃から古墳ブームが去り、代わりに仏教の時代である飛鳥時代が始まります。
中臣氏は祭祀を担う豪族?
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という南北朝時代時代に書かれた系図集によれば、「常盤大連は元は卜部(うらべ)なり」と記されています。
卜部とは卜占(ぼくせん)専門の品部で儀式を司る職業集団です。
『尊卑分脈』を信じるならば、中臣氏の前身は、全国に散らばる卜占専門の品部の一つ、または卜部を統括する伴造(とものみやつこ)だったと考えられます。
物部氏(神道)と蘇我氏(仏教)が対立した丁未の乱においても中臣味は神道を推す物部氏側についていましたし。
中臣氏の氏神と天岩戸神話
中臣氏の祖先神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)という神様です。天児屋根命(あめのこやねのみこと)は天岩戸隠れ(あめのいわとがくれ)の神話で活躍した神です。
『愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記』 を参考に天の岩戸神話をまとめてみました。
ある日、太陽神天照大神(あまてらすおおみかみ)は素戔嗚(すさのお)の乱暴に悲しみ、天岩戸という巨大な岩の後ろに隠れてしまいます。
神々は作戦会議をし岩戸の前で宴を開催する事で天照大神を岩から誘い出す作戦に出ます。天照大神が気になって岩の隙間から覗いたところを天之手力雄命(あめのたぢからお)が岩をこじ開けたとされています。
この時に祝詞(のりと)を歌い上げる役目だったのが中臣氏の祖先神である天児屋根です。
祝詞を歌った神ということからも、祭祀氏族らしい差が表れており、『尊卑分脈』の「元は卜部なり」にも一致していますね。
中臣氏と鹿島神宮の関係
鹿島神宮は常陸国鹿島(現在の茨城県鹿嶋市)に鎮座する、サッカーJリーグの「鹿島アントラーズ」の由来となった神社として有名です。
鹿島神宮の祭神である鹿島大神は武甕槌神(タケミカヅチノカミ)のことだとされています。タケミカヅチと言えば、出雲国譲り神話で活躍した武神です。
中臣氏の後裔藤原氏の氏神である春日大社でも第一殿に祀られているのは武甕槌神で、第二殿は経津主神(フツヌシノカミ)天児屋根はというと第三殿で祀られています。
『ヤマトタケル』より
10代崇神天皇の時代(推定3世紀)の中臣氏の先祖にあたる人物に神聞勝命(かみききかつのみこと)がいます。
ある日、崇神天皇の夢に白鉾の御杖を持った神が出てきたので、家臣達に夢の意味を尋ねました。
すると、神聞勝命が進み出て、その神はまさしく鹿島の国にいる「天津大御神(あまつおおみかみ)」に違いないと答えたそうです。
崇神天皇はそれを聞いて鹿島神宮に様々な幣帛(へいはく)を鹿島の社に奉納したとあります。
神聞勝の孫とされる国摩大鹿島(くにまずのおおかしま)は11代垂仁天皇(推定3世紀後半)の時代に物部十千寝根(もののべのとおちね)や大伴武日(おおとものたけひ)とともに五大夫(いつのまえのきみ)として重きを置かれています。
12代景行天皇の時代(推定4世紀)には国摩大鹿島の子の臣狭山(おみさやま)は鹿島神から「日本武尊に御船をもって仕えるように」との神託を受け、全長2丈(6m)の船を三隻造船して日本武尊に献上したそうです。
この故事が現代まで続く鹿島神宮の三船祭の起源とされています。
まとめ
・中臣氏を賜ったのは29代欽明天皇の時代であり、年代は6世紀(古墳時代の終わり)である。
・中臣氏の祖先神は天岩戸神話で祝詞を詠んだ天児屋根であり、元々卜部だったとする記載と重なる。
・中臣氏の祖先と鹿島神宮との関わりが見られる最古の記録は10代崇神天皇の時代であり推定3世紀である。
・景行天皇の時代(推定4世紀)には、中臣氏の祖先が鹿島神宮から船を派遣している。
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