古代史好きな28歳サラリーマンのブログ

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光る君へと日本史②藤原道長は糖尿病だった?

 

藤原道長は息子の頼通とともに、平安時代中期に藤原氏摂関政治の全盛期を築いた人物です。

 

しかし藤原道長の晩年は病に苦しみ、幸福とはいえない最期を迎えたようです。

 

藤原の道長の最期を見ていきたいと思います。

 

 

この世をば…藤原道長の栄華

1018年寛仁2年10月16日、53歳の藤原道長は人生最高の日を迎えました。

講談社まんが日本の歴史 ⑤より

この日に藤原道長の娘、威子が、後一条天皇天皇の宮中におさまり、酒宴が催されたのです。

藤原道長の長女彰子は一条天皇に、次女妍子は三条天皇に嫁いでおり、藤原道長の家から3人の皇后が出たことになります。

天皇3代の皇后を自分の娘で独占した藤原道長は宴席で有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を読んだと言われています。

 

ところが、藤原道長が記した『御堂関白記』という日記にはこの歌は書かれていません。

藤原道長と親しい紫式部も、『紫式部日記』にこの歌が詠まれたことについては触れていません。

唯一、藤原道長のライバルであった藤原実資だけが、自らの日記『小右記』に記しています。

 

さすがの藤原道長もあまりに自己肯定感満載のこの歌を自らの日記に残す事はしなかったのでしょうか。

 

いずれにせよ藤原実資がこの歌を日記に書き残した事により、藤原道長が傲慢な人物というイメージを後世に残した事は違いありません。

 

藤原道長は糖尿病か?

 

藤原道長は長年の美食と大酒がたたり、中年過ぎから飲水病、今でいう糖尿病を患っていたようです。

医師の篠田道明氏は『日本史有名人の臨終図鑑』で、道長は2型糖尿病だと診断しています。

 

2型糖尿病になり、血液の中の糖が高い状態を長い間放置しておくと、血管が内側から傷ついていろいろな病気が発症します。

らいふる介護より

特に細い血管から障害されて、網膜症、神経症、腎臓病が3大合併症として警告されます。

 

篠田氏は53歳の藤原道長はすでに糖尿病性網膜症をおこして、ほとんど目が見えなくなっていたと診断しています。藤原道長は62歳で逝去しますので9年間は網膜症を患いながら生活していたのでしょうか。

 

藤原道長は宴席の時点ですでに月がぼやけて、欠けているかどうかはっきり見えていなかったのかもしれません。

 

藤原道長安倍晴明

藤原道長はこの年の夏、にわかに胸の激痛に襲われ、あまりの苦しさに悲鳴を上げたといいます。

 

胸の痛みとは心筋梗塞か何かでしょうか。糖尿病があると心不全になりやすいと言いますから…

③糖尿病管理と心不全入院の関係 (表1)HbA1cが8.4%以上の糖尿病管理が極めて不良の群ではそれ以下の群に比較して心不全入院が多かった。

国立循環器病センターより

 

 

平安時代の頃は病は呪詛や怨霊、鬼やもののけが引き起こすと考えられていました。そこで安倍晴明らが盛んに厄除けの祈祷を行ったところ、藤原道長の症状は少し改善されたそうです。「病は気から」と言うように「プラセボ効果」と言ったやつでしょうか。

 

しかし、翌年には再び激しい胸の痛みに襲います。その後も度々胸の痛みに襲われた藤原道長は、自らを「撹乱」と診断し、呪詛や怨霊の仕業だと考えました。

 

藤原道長が記した『御堂関白記』には、「近頃は数十センチ離れると人の顔もよく見えない」と記しています。

 

膝の痛みで歩けなくなり、出仕出来なくなった道長はついに出家することを決意します。出家した時の道長の様子を藤原実資は「容顔老僧のごとし」と日記に記しています。

 

凄腕陰陽師安倍晴明を持ってしても道長の病を払う事はできなかったということですね。

 

藤原道長と浄土信仰

藤原道長出家した後も「毎月5.6回は天皇にお会いしたい」と周囲の者に話しており、このような状況でも権力への執着を捨てなかったようです。

道長は自邸の隣に法成寺という広大な寺院を建設し、呪詛や怨霊に対抗しようとしました。

この頃の流行りは「浄土信仰」で貴族達が競うように阿弥陀堂の建立が盛んに行われていました。浄土信仰とは阿弥陀仏(あみだぶつ)にすがり念仏を唱えることで、死後は極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰で、始まりは第3代天台座主 慈覚大師(円仁)が延暦寺に建立した常行堂です。 

10円玉でお馴染み息子の藤原頼通が1053年に建てた「平等院鳳凰堂」も浄土信仰の阿弥陀堂です。

 

1021年治安元年56歳になった道長は25年間つけてきた日記をぴたりとやめています。

 

最後に記された日記には15万遍、17万遍とその日に唱えた念仏の数が記されており、ほとんど目の見えなくなった道長がしきりに念仏を唱えている姿が想像されます。

 

この頃から道長の周りで娘や息子が死去したりと不幸が続いた事も関係しているのかもしれません。

 

 

藤原道長の最期

1027年万寿4年に皇太后妍子が35歳の若さで亡くなると、道長は衰弱し、食事を食べられずに下痢が続き、背中に大きな腫れ物ができていたそうです。

糖尿病になると癌の発症率も高まりますし、大きな腫れ物は癌だったのではないかとも思われます。背中の痛みとしたら膵臓癌でしょうか。

 

藤原道長は1028年万寿4年12月14日に息を引き取りました。享年62歳でした。

 

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