大和政府と蝦夷の戦いといえば「坂上田村麻呂」が有名ですが、それよりも200年ほど前に蝦夷と戦った人物がいました! その名も阿倍比羅夫(あべのひらふ)です。
阿倍比羅夫とは?
『日本書紀』によると七世紀後半、越国(現在の石川から新潟あたり)の国司であった阿倍比羅夫が、一八○~二○○隻の水軍を率いて、数回にわたり日本海側の地域を北征したとあります。
齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)、津軽方面を平定した阿倍比羅夫は、津軽の蝦夷を集めて蝦夷(北海道)にまでわたったと書かれています。
阿倍比羅夫の系図
阿倍比羅夫をはじめとする阿倍氏は古代から中世において大きな力をもった一族です。子孫は安倍晴明、奥州藤原氏、内閣総理大臣安倍晋三氏も阿倍氏の末裔であると公言しています。
阿倍比羅夫が生まれた家は、第8代孝元天皇の皇子大彦命(おおびこのみこと)を始祖とすると伝えられ、一門の中には大臣に任じられた者も多い古代の名家です。
阿倍比羅夫は白村江の戦い(663年)にも水軍の大将として出陣しており、子の阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)は平城京造営の責任者、孫の阿倍仲麻呂は遣唐使として派遣されており、官僚エリート家系です。
阿倍比羅夫が活躍した時代
阿倍比羅夫は西暦610年頃に生まれたと推定されます。この頃は隋が中国を統一(589年)し、618年に唐がそれを引き継ぐ、東アジア激動の時代です。
緊迫した東アジア情勢に対して、630年(舒明天皇2年)大和朝廷は第1回遣唐使を派遣します。唐の強大化を痛感した大和朝廷は来たる唐との戦いに備えて兵力を集めようとしたに違いありません。
国力を充実させるために、蝦夷平定を担当したのが、越国守(こしのくにのかみ)だった阿倍比羅夫でした。
越国(こしのくに)は古代から豊富な資源と海上交通の要所であり、『古事記』では「高志之八俣遠呂智八俣遠呂智(こしのやまたのおろち)」として登場したり、糸魚川産の黒曜石は縄文時代から飛鳥時代にかけて日本全国に流通しています。
豊かな資源と兵力に恵まれた越国の兵を率いて阿倍比羅夫は東北に遠征を行ったのでしょう。
658年4月、比羅夫は180隻の軍船をひきいて奥州に向かい、飽田(秋田)、淳代(能代)の蝦夷を服属させることに成功。そして北海道に進出していた粛慎(みしはせ)(アムール川流域を拠点とするツングース系民族)と戦い、生きているヒグマ2匹とヒグマの毛皮70枚を戦利品として朝廷に献上した。と『日本書紀』にあります。
北海道で阿倍比羅夫らが戦ったみしはせは北海道にオホーツク文化をもたらした樺太の少数民族ニヴフ(ギリヤーク)だとする説もあります。
白村江の戦いに参加した阿倍比羅夫
蝦夷を平定した2年後の天智天皇元年(662年)8月阿倍比羅夫は中大兄皇子(後の天智天皇)の命を受けて、白村江の戦いに参加します。
新羅征討軍の後将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かい、武器や食糧を送った(この時の冠位は大花下)とあります。しかし、翌天智天皇2年(663年)新羅と唐の連合軍に敗れます。(白村江の戦い)
天智天皇3年(664年)新冠位制度(冠位二十六階)の制定に伴って大錦上を賜り、筑紫大宰帥に任ぜられています。『続日本紀』
阿倍比羅夫は越国、東北の蝦夷の連合海軍を率いて海を渡り朝鮮半島で戦ったのではないかと考えると面白いですね。
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